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橋下弁護士にのせられて懲戒請求する前に [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

この案件について橋下弁護士に否定的な意見を書くと必ず「一審二審では主張してないのに突然差し戻し審になって言い出した」「死刑廃止論者が自分の主張をする場としている」と返ってくるが、果たしてそうなのだろうか。

そういう意見を言う人に言いたい。「あなた」は少なくとも既存のマスコミ報道以外にきちんと弁護人の意見を調べ、また被告人の主張を調べたことがあるのか、と。キチガイ弁護士の言うことなど取り合うほうがおかしいというのなら、すでに思考停止状態だと思われるので、ここから先は読まれないほうが賢明だろう。だが、懲戒請求を行った後で、仮に弁護士会に呼び出されたとする。その際、上記のような発言をしたところで、法的根拠を持たないからと判断される恐れはある。その結果提訴され最高裁判例に基づき懲戒請求権の濫用につき不法行為であるとされる可能性があることについては熟知しておくべきだろう。何より、煽った張本人の橋下弁護士は懲戒請求なんてリスキーなことに手を出してないのがその証左である。(忙しいからだってさ。お笑い種ですな)

旧一審二審において、こういう事実があったとしても、「あなた」はまだ懲戒請求を行うのだろうか。

・被告人は旧1・2審では、訴訟記録の差し入れもしてもらっていなかったので、記憶喚起も曖昧であり、検察官の主張に違和感を唱えても弁護人に「下手に争って死刑のリスクを高めるより、反省の情を示し無期懲役を確実にする方が得策」と示唆を受けたと述べている。

・家裁での調査記録に「戸別訪問は孤独感が背景」「予想外に部屋に入れられ不安が増大した」「被害者に実母を投影している」「退行した精神状態で進展している」「死者が生き返るとの原始的恐怖心に突き動かされている」「発達程度は4、5歳レベル」などと書かれている。

・また家裁記録には「劇画化して認識することで自己防御する」とある。そうすると「ドラえもんが」や「魔界転生」等も、そういう被告人の性癖が路程されただけとも言える。

・さらに1審の被告人質問では殺意を否認する供述をし、強姦の計画性は刑事や検事に押しつけられた、と否認している。

・なお被告人質問は1審で2回、2審で4回ほど行われているが、犯行態様について聞かれたのはわずか20~30分間、全体の10分の1以下の時間に過ぎない。

・被害者の遺体の法医学鑑定も大きな争点です。弥生さんについて「両手で体重をかけて締めた」とされていますが、片手のみの跡が残っており、舌骨骨折もないから疑問を提起しています。夕夏ちゃんについて「頭上から後頭部を下に叩きつけた」とされているが、頭蓋骨骨折も脳内出血も無いことから疑問を提起している。被告人は「弥生さんは片手で押さえた」「夕夏ちゃんを叩きつけたというのはない」と述べており、現供述の方が客観証拠と整合する。

・また本村さんを睨んだとされたが、被告人は斜視で(家裁記録にも「斜視であり、脳器質の異常が疑われる」とある)、目が視線とは別の方を向いている。つまり実際に目があったときには、どこかほかのところを見ているかのように見える。そのことも記者会見で説明している。

・また橋下弁護士は「弁護団は国民への説明責任を果たしてない」と主張するが、すでに5月に陳述し、マスコミにも配布した「更新意見書」(近日中にWeb上にて公開予定との事)に書かれている。以上の理由により、守秘義務違反も生じない。橋下弁護士も、大阪の集会でこれを読んで以降は、「弁護団の主張自体はもう批判しない。1・2審であれば自分も同じ主張をしたかもしれない」としている。

・弁護団の中には死刑廃止論者だけではなく、検察出身者も存置論者もいる。また弁護団が現在までの段階で本件において死刑廃止論を訴えたこともない。

司法について疑問を持つのももっともである。国民感情と判決その他の乖離が見えるという怒りも然りと思える部分もある。だが今回の件は、マスコミ報道に躍らせていると思える箇所がいくつもある。調べれば調べるほど得心できかねる現実にぶつかる。

ここで強調しておくが、私はどんな事情があろうとも、本件の被告人には同情しない。殺す側にどんな理由事情があろうとも、殺される側への弁解とはならないからだ。またこの弁護団の主張がすべて正しいとも思わない。ただ、だからといって、マスコミが偏向報道してよいという理由にはならない。まったく別物である。いろいろ問題が多いといわれている弁護団だが、一審二審において触れられなかった(それが被告人における内心の真実でしかないことは理解したうえであえて書くとするならば)「事実」を掘り起こそうとしていることは間違いない。そこには目を向ける必要があると私は思う。ましてや、懲戒請求という法的手段に出る前には。

怒りの矛先を被告人ではなくなぜか弁護団へ向け、業務負担を強いる前に、少し考えてみてはどうだろうか。憎むべきは罪で、弁護団ではない。そして「あなた」は、マスコミに提出された資料も読まず、その場その場にあわせた、大衆におもねる主張をする弁護士と、調書そのものから見直し、己の主張を遡って調べ耳を傾ける弁護士とどちらがよいと思われるのだろうか。


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光市母子殺害事件に関する懲戒請求について(煽り屋ばかり橋下含むけど) [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

例の光市母子殺害事件にからむ弁護団への懲戒請求騒動、どうにも納得がいかない。

2ちゃんなどを見ていると懲戒請求騒動が起こったのは、本裁判における被告人と弁護団の主張のあまりの荒唐無稽さに憤ってというパターンが多いようだが、そもそも被告人の主張がどんなに荒唐無稽でも120パーセント信じて弁護にあたり被告人の利益を追求するのが弁護士なのではないか。その主張が普通じゃないというのを論拠にするのは普通という概念が個々人によって振幅の幅が大きいがゆえにもちだすべきではないと思うし、懲戒請求が多い=みなが同じことを思ってるから正しいなんてのも、多数派が常に正しいわけではないことはとっくに歴史が証明している。

また被告人が弁護士弁護団の作ったストーリーに載せられているというのも推測憶測の域をでない以上やはりこれも依拠すべきではない。

荒唐無稽だからそんな主張するなおかしいという人々は、あの事件を忘れられたのだろうか。ある地区で毒ガスによる死傷者がでるという事件が発生し、農薬をたまたま何種類か保持していた男性が逮捕された。男性は冤罪を訴えだが、県警による情報操作に踊らされたマスコミは次々に(毒物研究者まで動員して)彼に不利な報道を流し、続けた。もしその時、弁護団がこれはある宗教団体によるものだと主張したらどうなっただろうか。荒唐無稽と一笑に付される可能性はないだろうか。

もちろんこのように現在では冤罪と確定したケースを持ち出すのはいささか卑怯かもしれない。私もおそらく(判決がでてないので念のため断り書きをしておく)本件は有罪だと思う。無期懲役が被告人のいうように15年ででられるケースがまずない(中には50年以上現在も継続になっている場合もあるそうだ)としても、死刑をと率直な市民感情を露わにしたくなる気持ちもわかる。であればこそ冷静に見守る必要があると思うのだが。

とにかく私は別な意味で実は少し安堵している。これだけ懲戒請求を出す人々がいるのなら、この方々は裁判員制度が始まった暁には必ず参加してくださるだろう。まさか司法に市民感情を反映させたいというのなら裁判員制度を活用しないなんてことはあるまい。サボりませんよね?


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最近思う政治的なよしなしごと [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

右だの左だのという大雑把な分け方でいうのならば、私はおそらく右だろう。中道右派ってヤツです。基本的はそうだが、立場で物事を判断することはしたくない。ある社会事象に対して書く場合には、ダブスタだけは用いない、個別の事例で判断する、これだけを守っている。そうするとどうやら右か左かハッキリしろという人が現れてくる。不思議なものである。

以前あるところで、なぜきっこの日記や朝日新聞について書かないのか、といわれたことがある。私としては何故イマサラそんなことをいうのかと逆に疑問を抱いた。朝日については、戦前の白虹貫日事件によって、政府によるマスコミ介入を招いたその時点からなんら本質的には変わってないと私は思っている。(確か白虹貫日事件の際問題になった記者が朝日の社憲を書いてるんじゃなかったっけ?)きっこについてもイマドキ、アレを信じている人がいるというのが不可解で、そういう人は宗教と一緒なのだからほっとけよとすらいいたくなってくる。総称して言うのならあまりにも当たり前すぎて興味すらない、という感じかもしれない。

それよりも気になるのは、例えば2ちゃんねるの特定板である団体、会社、マスコミがクローズアップされるとき、逆に「見えない」のはどこか、ということである。メディアリテラシーは余白を考えることが大切であると私は思っている。例えば靖国神社の遊就館において、第二次世界大戦はアメリカの対日戦略によって引き起こされたとなぜ掲示する「必要」があるのか。その文言が必要なのは「誰」なのか。ある団体の利権が槍玉に挙げられるとき、同種の団体が注目されないのは何故なのか。そのあたりについて考えておかないと、二つの出来事にあてはなる内容であるのに、片方しか糾弾しないといった「ダブスタ」が生じてしまう。百歩譲って「ダブスタ」と分かっていて行うのはまだマシかもしれない。「ダブスタ」と認識しないで「行わされている」のは、思考停止と同じ状況ではないだろうか。

「美しい国」なんて言葉を流行らせた?人がいる。ありがたがるのはケッコウだが、その人の「美しい」とオノレの「美しい」が一致するなんて、どうして思えるのだろうか。もっともそんなことを考える必要がないのだろうけど、プロパガンダにおいては。


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ネタに釣り。煽りに罵倒。よのなかってワンダー。 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

まあみんなおんなじこと考えてんのねって話。素敵シンクロニシティ。

下記あんとに庵さんのエントリで「女がこんなだから男が弱くなったんだYO!」と脳内中心から世界に向かって叫んでいる人がいるのを知った。

↓あんとに庵氏のエントリ
■[文化一般]男女の非対称性・DVの光景
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070702/1183339288

そのネタ元はこちら↓
■住 太陽のブログ「女性の心ない言葉の暴力に殺された男たち[鬱文書注意] 」
http://www.motoharusumi.com/jobs/motivation/violence_in_word_by_woman.html

mixiやら2ちゃん界隈では「恋愛なんて肉欲を満たすための大義名分。風俗と一緒」とヘンチクリンな論理モドキを展開する人が定期的に現れて一席ぶつのが恒例行事なわけですが、みんな恋愛話好きだねえ。否定する割にはどうにも気になるのか、恋愛マンセー社会を糾弾するとかなんとかいってそのネタをいつまでも引っ張る。そうなってくると、かまってちゃん疑惑やら仲間欲しい!!って叫んでいるようにも見えるし、どうしたもんやら。そのあたりをもっと巧妙に、ある目的のため(自称)に文章化した結果が上記住太陽のブログ記事になる。ネタらしいけど、ネタであるならそんな言い分墓場まで持っていけよ。どうも自称釣り人は「釣りでした」とわざわざ宣言しなきゃ気がすまんらしいな。ネタですよと暴露して「なにマジになってんのバーカバーカ」なんてイマドキいくら昭和懐古ブームだからって80年代ひきずるんですかこの平成生まれが成人式迎えようってときにアータ。そもそもブームは昭和30年代らしいのでちと先取りし過ぎでございましたな残念でした。とまれ、なんとなく言いたい放題のルサンチマンを書き殴るエクスキューズとして「釣り記事」を大義名分にしているにすぎない気がするのは私だけでしょうか。

所詮俺ッちごときがぐだぐだいっても、アフィリな方やご商売に熱心な方はそんな謗りはなんてことはないだろうけどな。世の中儲けたもん勝ちらしいし。日本人の美徳といわれる「謙虚さ」「つつましさ」なんて過去のもの。いろんな意味でわくわくしてくる社会になってきたものだ。もっとも自分の内閣を「美しい国づくり内閣」なんてわけのわからんことをいう人が総理大臣やってんだもん。当たり前かもしれません。


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「嬉しくない味方」(伊勢崎のジャンヌダークは今日も無意味にお元気ですね) [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

助け舟がある、というのは有り難いものだ。

先日友人の誕生日にシーサーをあげようと思ったが。義務教育で美術の修練を終えた私にとって、それは思いついたはいいが実行となると果てなき難事業である。たまたま彼が美術系大学を卒業し、粘土造形好きだったおかげで、ほぼ思い通りの作品に仕上げることができた。

また左記のように直裁ではなくてもミッチェルのように、ある政治的な事柄に対して私が書く時に、専門職ならではの重要な示唆をくれる人もいる。そのため、賛否双方の論を考察することができ、私なりに深めた(または香ばしく醗酵させた、ともいう)論を展開することができたりする。

このように助け舟、または味方というのはたいていの場合有難く、嬉しいものである。私と同じような政治的立場の人から自分の論拠になるような資料を教えてもらったときもしみじみとした有難味を感じる。

だが、悲しいことに嬉しくない味方というのも存在してしまうのがまた人間社会というものだろう。そしてそういう「嬉しくない味方」に限って、悪目立ちするのだからたまらない。

さて若干話がそれるようだが、私は個人的には「南京“大虐殺”はなかった」という立場をとっている。なかった、というか、おそらくは市街戦より若干多い数字ではないか、と思っている。(秦郁彦氏と非常に近い立場といえる)犠牲者が出ているので、冷徹に話しすぎると人間性の問題とも思えてくるが、『「大虐殺」というには言葉が過ぎる、市街戦に市民が巻き込まれてしまった』といったおそらくはこのあたりが「妥当」ではないかと考えている。(大虐殺というのなら、まさに広島長崎がそれに該当する。当時の市民数から考えても現在中共が提示している数字はありえないだろう)上記のような立場をとり、また、従軍慰安婦についても「現在積極的な政府関与が認められる資料が見つからないのだから」政府による強制はなかった、という意見であると、右より称されることが往々にしてある。以前は、この手の意見は少数派であるが、小林よしのりの活躍やらネット普及もあって、特に珍しくもなくなってきたようだ。ネットを見ていても、ああなるほどとこちらの参考になるような意見を読むことも多い。ネットウヨクなんていう蔑称もあるようだが、十把ひとがらげに扱ってほしくないと常々思っている。「嬉しくない味方」が槍玉に挙げられ、「だから右は馬鹿ばっかりだ」と嘲笑されるのをみると、ひたすらむなしい。「嬉しくない味方」に向かって「お前は黙ってろ」と言いたくなることも多々ある。

でもって、「嬉しくない味方」は誰よ?って話なのですが、例えば八木ヒデジ(秀次ともいう)のような自称学者であったり、伊勢崎のドンキホーテ(あれ?)こと某女性市議会議員だったりする。それにしても意気軒昂だな伊勢崎の自称ドンキ、もといジャンヌダルクは。

「真っ赤な嘘」
http://blog.livedoor.jp/junks1/archives/50991771.html

こちらのエントリーで上記記事を知ったのだが、前回もさんざん叩かれたのに(詳細はリンク先参照のこと)、いやあ懲りてないというかなんというか。そんな事誰も言ってねえよという論拠をでっち上げて、それが否定されたからと怪気炎をあげている。このひとといい八木デムパといい、この手の論述が大好きだな。アレな人はアレな人なりにおとなしく黙っていればいいものを、デンパ受信八木といい、伊勢崎のドンキホーテといい、脳のオデキと反比例するかのように自己顕示欲だけは旺盛だから困ったものだ。ひっこんどけ、なんて言論の自由を阻害するようなことはいえないし。

とまれ左翼や一般大衆の皆さん、だから右翼はダメだなどとお願いですから言わないでください。特に伊勢崎のドンキホーテは、話のマクラに天気の話しかもちだせないようなレベルなんですから。そのあたりの事情をおして生暖かく見守ってください。ヲチるには最高の物件なのですから。


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「それって、アタマ悪過ぎ」 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

たまに私のことを「頭が良いね」などとという人がいるが、そういう言葉は、単にいやみかなにかだと思っているので、一切気にしないことにしている。どっちかというと私は頭が悪いと思っているからだ。どういう風に頭が悪いかというと、すぐにチンマンコとか言い出す時点で既にアレですな。それはさておき。

さて、「頭が悪い」状態にも種類がある。まあ私のようにあまりにも根本的な部分で問題がある場合や、徳川幕府は平安時代に誕生した、というような基礎学力に欠けている人なんかは分かりやすいとは思うけれども(特に基礎学力不足な人は、アイドルなんかだと「天然」と言い換えられて、それはそれで萌えポイントになったりしますな)、厄介なのは、前後矛盾したことを平気でいい、それでいて他者をダブスタと批判したりする客観性がかなり欠如しているような人である。往々にしてこの場合は、周囲とは言語認識能力および使用する力量の差が顕著となり、本人だけが自覚できないがまわりは認知しているという図式に陥りやすい。また、そういう人は、他者の言質をとる、つまり誰かが発言しないと自分ではなにかを言うことができないという、本人の「問題」が発揮されるのが「誰かがなにかを発言した際」なので、かなりたちが悪い。具体的に指摘しづらく、したとしても例えば「空気読め」に代表とされる曖昧な表現しか思い浮かばないので、言語認識能力および使用する力量に差がある人(+客観性の欠如)は指摘されてもなんのことやらさっぱりだろう。なぜ「差があるのか」が分からないから問題なのであって、その差を理解させようとしても、病巣が「イギリスでおきたフランス革命」ばりにわかりやすくはない分、徒労に終わる蓋然性が高い。基礎学力が足りなければこちらも諦めがつくけれども、こうなってくると、話していてもお互いいらいらするばかりで、まったく先には進まないし、建設的な方向には進みづらい。困ったものだ。

この前、久しぶりに昔荒らされた自分のブログ記事を見て、炎上とかなにやらを少し考え見た。そのときは炎上までは行かなかったけれども、とにかく炎上させる人も、されちゃう人も、上記のような傾向が見受けられるのが面白い。「その結果他者がどう考えるか」という観点がまるごと抜けているのだ。まあ書き手/受け取り手の能力が問われないのがネットの良いところで、またいかがわしいと世論から認識されてしまうところなのだが、淘汰されたらつまらないとも思う。結局のところ大事なのはチョムスキーのいうように、情報を精査する能力なのだろう。なのに、その最も重要なところがどこか放置されすぎているように思える今日この頃。


IDはEDにあらず。(ID論は進化論に勝つか) [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

ミッチェルのblog「わらばー自治区」記事より。

積ん読その12『反☆進化論講座 空飛ぶスパゲッティ・モンスターの福音書』
http://blog.so-net.ne.jp/warabaa/2007-02-08-1

ぽむちぼんの癖にたまにはいいこというなとチョト感動。特に「例えば某新聞社では、歴史教育と道徳教育の観点からIDを好意的に取り上げた記事を書いていた。」というあたりとか。

ID説っつーのは、「生物の複雑さは進化論では説明できず、なんらかの“知的存在”がデザインしたとする説である。それがキリスト教の神であるともないとも明確にはせず、あくまで科学的仮説なのだから、進化論と同様に公教育で教えるべきだ、と主張して教育委員会等に働きかけている。」(前傾記事より引用)というもので、まあキリスト教右派が何らかの形で影響を与えたいんだろうな。勝手な思い込みですが、イトシのヒデジこと八木秀次氏あたりが嬉しそうに「アメリカではこういう考え方がある」とまた我田引水しそうな気がします。そしてアベちゃん教育改革(ブレーンだそうだよ)の目玉に、と御用達の世界日報でぶちあげる、と。


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コンプレックスを生み出したのもお前なら、あとはてめえでなんとかしやがれ [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

映画を毎日きっちり見てる割にはそのほかに書くことが多すぎてレビューまで手が回らんですよ。キムギドクの「弓」はよかったとか、いやレビュー以外にも先日もの凄くイイ男と飯を食ったとかいろいろ書きたいのにちくしょうめ。だからこんなことで煩わせんじゃねえよオマエのことだよわかってんだろ。

コンプレックスなんざてめえで生み出したもんじゃねえか。他人がどうこう言おうとも拘泥してしまう自分にとっての課題をコンプレックスというのなら、一人相撲もいいとこだ。コンプレックスへの呪詛はお前がお前に言っている寝言に過ぎないことに気づけ。誰かがお前の欠点を馬鹿にしたからコンプレックスになったなんて人のせいにするな。創造主なら生み出したものに対して責任をもて。不細工だから男にもてない、背が低いから女にもてない。だからどうした、と私は言いたい。もてないからなんだっての?もてたいならそれなりに努力しろよ。顔面に恵まれているやつだって頭脳経歴に恵まれているやつだってそれなりにみんな努力している。いわんや恵まれてないやつなぞ、努力しなきゃどうしようもねえじゃねえか。二言目には俺はこうだ私はこうだと繰言ばかりヌかしているから「理由」にされるんだよコンプレックスを。

例えば、男と別れる、またはフルときだ。

私なら、その後もそいつと友達付き合いしたいとも思わない場合、徹底的に酷いヤツになる。だいいち後腐れなく別れるには、憎まれるのがもっとも効率的かつ有効な方法である。そういうわけで別れる理由としてそいつがコンプレックスに感じている部分をつく。よってそいつが不細工なのを気にしているのなら「顔が悪いから」、背が低いのを気にしてるなら「ちび」だからといえば、二度と連絡をよこしてくることもないだろう。本当はそいつの性格上に問題があるときでも、そんなのを指摘してぐだぐだするのも面倒だし、どうでもいいやつがどうなろうと私の知ったことではない。

そう、だから断られる理由で自分のコンプレックスを相手が指摘したとき、怖いのはそういうことだ。「背が低い」のを理由に断られたとしても、実際は「背が低いことをぐだぐだいう性格」が嫌なのかもしれない。ていうか、そうなんだろうけどな。うざいんだよ。

なぜうざいか。

「俺は背が低いだろう?」っていうとき、否定してもらいたいという気持ちがその裏にあることが透けて見えるからだ。「そうじゃないよね?君はそんなこと気にしないよね?ありのままの僕を受け入れてくれるよね?」ということに対して、毎度毎度「ありのままのアナタがスキよ」みたいにいわなきゃいけないなんてウザい以外の、なにものでもない。確認作業が必要なら音声付ダッチワイフでも買えばいいのだ。

ありのままの自分に価値があるとか意味があるとかよく思えるなって私なんかは感心する。ニーチェ式に「価値のない意味のない人生だからこそ自らで価値を作り出すのだ」っていう風には考えないんだな。だってメンドクサイし。ありのままを認めろっていうのは相手に甘えている行為に過ぎないんだけど、ご本人はそのつもりなく、権利主張だと捉えていたりするからフシギフシギの不思議膏でございます。

さてオノレの身体的特徴にコンプレックスをもつのは、まだ消化しやすい。どうにもでなるのならどうにかすればよいし、どうにもならないのならあきらめて別な側面からアプローチすればよいからだ。それにいつだって歴史を動かすのはルサンチマンであるとカール・マルクスもいっておりますし(嘘)。では、オノレの過去にコンプレックスを抱えている場合はどうしたらよいのだろうか。忘れられるから生きていけるといったのは三島由紀夫だが、忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ、なんて哀願調でまとめられてもねえ。忘れようとしても忘れられない。オノレが異常者であるという烙印は自分では消せない。時が経っても、それはひどくなることはあるにしろ、決して勢いが衰えることはない。なぜならオノレがしたことだから。

私が男と寝る、性的な行為を行ったのは4歳から5歳にかけてのことだ。
お医者さんごっこなんていう生易しいレベルではない。相手の子も同じくらいだったから勃起できなくて挿入まではできなかったけれども。いまでもあのときのことは鮮明に思い出すことができる。

私は被害者ではなく、ある意味加害者だ。なぜなら私が誘ったから。時が経てば経つほど、私は自分のしでかしたことの意味とその重みを十二分に理解させられる羽目になった。私は、たとえ親であれ、男性に無邪気に抱きついたりといったスキンシップをとることができなくなった。自分が異常者であることが周囲にわからないように行動には細心の注意を払うようになった。自分が女性であることを嫌悪した。願えば男性器が生えてくるのではないかと毎日神に祈りながら眠った。自分のした行為がなんであったのか正確に知るため小学校低学年から瀬戸内晴美を読み愛欲を知り、岡本かの子を読みおんなのかなしさを垣間見た。エロ本を買って男女の営みの滑稽さを目の当たりにして絶望し、卑猥語をそれとわからず使っている同級生を羨んだ。そして生理が来て、自分が女である現実からは永遠に逃れられないことをのろった。

中学生になり愛人をもち、そいつが私を自分好みに仕立てたいから選んでいることを鼻で笑いながら貢がれることの楽しさを得たりして、ああもう私は普通のコイビトなんて、と熟知した。私は汚れているのだから、こんな私でも選んでくれたのなら、絶対に拒むのをやめようと。そして16歳で31歳の男によって処女を失い、それでもオノレの性を悩みに悩んでついには精神病院に放り込まれた。家には一年のうち三ヶ月ぐらいしかいないようになり、二極性精神障害という病名が光り輝くわけです。そんな日々が長いこと続いた。死んだやつもいた。死なせたやつもいた。生き残ったのは、この私だ。

どうだ。こんな風に不幸自慢なんて誰だっていくらでもできる。100人いれば100通りの不幸があるだろう。“幸せな家族は似通っているが不幸な家族は様々である”のだから。他人の不幸なんてつまらんだろう?一読してうんざりしただろ?だから無意味なんだ。そして「自分はコレだけ差別を受けてきた」と主張している人が、他人の痛みやらなにやらにまったく無神経だったりする。ちゃんちゃらおかしい。そういう輩に限ってダブルスタンダードだと他者を攻撃したりする。ダブスタ同士仲良くやれってんだよ。相手を差別するのなら、てめえだって差別されて当然じゃねえか。自分が特別視されたいのなら、オノレのキャラを生かせよ。認められたい、ほめられたい。だったらそれなりに努力しろ。自分を変えることで『世界』を変えよ。自分の位置を変えようとせず、その努力を怠っていながら結果だけ望むとはいいとこどりで都合よすぎなのです。これでもまだあれこれ文句たれるなら、こんな話はいかがかしら。

「需要と供給なんじゃないの?」と我らが総帥はコーヒーをちゅーっとすすって淡々と言う。私わからないんだけど、と人差し指をほおにあてて夢見る乙女ポーズ。
「例えば背が小さいオトコノコならチビっこ掲示板にいってみたらどうかしら?若いうちに売らないと高い価値つかないのよあっちも」フケ専門デブ専門は知ってたけど、チビっこ専門もあるのか…なるほどゲイの世界は奥深い。「需要があるところに供給すれば悩まなくてすむのに、不思議なハナシだわ」と総帥はにっこりと。なるほどね、ありのままの君が好きだといってくれるわけだから、悩めるアナタにとってこんなに有難い話はないでしょう?そんなわけで需要のあるところへ供給すれば万事快調。そうでないのを望むならそれなりのことをせよってことでちゃんちゃん。


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おゲージツ地雷(ごリッパな芸術家気取りがイチバン嫌だ。) [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

最近、私が撮った画像をmixiアルバムやgooブログへあげるようにしている。

もちろん自分の撮った画像が巧いから載せているわけでもなく、なんとなく批評が欲しいという気持ちと、撮った画像を客体化して見たいという感覚でupしている。それでもほめられたりするとやっぱり嬉しい。うまいですね、といわれるよりも、雰囲気がある(まあ下手をほめるとしたらこれしかないわな)あるいはこのとき撮った感情が分かるというような指摘をされたほうが非常に面映い気持ちになる。なにかを伝えることに成功しているわけだから。

だが、まれに評論家気取りであれこれいってくる輩もいる。実に無粋だ。頼んでもいないのにいう人間に限ってどうでもいい批評をよこしてくる。なんの参考にもならない上に、感情が沈殿していきやがてやる気すら奪う。まさに地雷である。webで発表する以上宿命とはいえ、やりきれない気持ちになる。

今回そんな地雷を踏んでしまったのは、私が好きでよく見に行く人だった。彼の絵につけたそいつのコメントを読めば読むほどその小賢しさにまったく腹がたつ。根本敬先生ではないが「お前は黙ってろ」といいたい。上からものをいう、高い見から見下したコメントを書いたご本人がどれほど「オゲージツ」なのかその絵を見に行ったが、これがまた実にアレで、よく言えば「きれいですね」悪く言えば「ラブホの飾り絵みたいな」、つまり絵葉書にはぴったりというところかなと。

まあそれでもねえ、私のような美術好きとはとてもいえない人間(だって好きな画家はフラゴナールだし)だからそんな感想を抱くのかも、だってゲイダイ卒って書いてあるしぃ~とハニーコミヤマに意見を求めてみた。彼は美系大デザイン科卒なので不見識はお前だ、あの絵の素晴らしさがわからんのかぐらいのことは言われるかなと思ったが、その意見は私と同様というかもっとアレで、あーゲイダイって感じだねえと切り捨ててしまった。この人もさあ、結局その絵が売れてたらそんな批評なんかしないと思うよ、この人の絵みてると技術だよね、だからなに?って思う種類の絵、として更に続けた。

「つまりさこういうのは、“恋人達の甘い囁きを、国語教育の立場から添削する”ようなものだと思う。 なにも恋人達は教育者のために言葉を紡ぎ出すのではないわけで、そこに敢えてしゃしゃり出てくるのならば“無粋”の謗りを免れないよね。言葉も絵も、一度制作者の手を離れた作品は様々な評価に曝される。でもそれが“誰に対して”“どんな場で”発表されたものかを予め理解しないと、正しい評価にはならんと思う。 」ま、なんだね、とちょっと笑って彼はいう。

「『プロの立場から言わせてもらうと…』なんて意見は往々にしてお呼びじゃないもんです」

私も以前ある人に小説を見せて「お友達の瑠璃子ちゃんが一生懸命書いたと思うと頑張ったねえといいたい」とものすごい批評をされたことがあるが、それでもやっぱり書くことが好きでこうして続けている。こういうのはもう好きだったら続けるべきであるとしかいいようのない話なんだろうな。だから「おゲージツ地雷」にヤラレてもめげずに長い年月じっくりと続けて欲しいと、件の被害者には思う。すぐに復活しなくてもいいからさ。なにしろ、私はあなたの絵がとても好きなのだから。


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「和食認証制度」をめぐるTB議論総括 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

ツボに入る言葉、というのがある。

この間別なところでコメントをやりとりしていた際、「僕が快く思っていないものは『答えが一つしかないもの』に対して『いや、色々な人の意見がありますが...』とお茶を濁す行為と、『答えが沢山あるもの』に『お前、それは間違っているだろう!』 と断罪してしまう行為です。 このどちらも凄く破壊的な事なんだけど、多くの人は、意識的・無意識的に関わらず、これをすりかえてしまう。 」というレスが相手から返ってきた。なるほど、と思う。

またある政治学者と話していて印象に残った言葉もある。「政治学的な問題というのは、知れば知るほど断言ができなくなる」つまり裏を返せば知らなければ知らないほど断定できてしまう、ということになる。

私なぞは自分の知識の無さに絶対の自信をもっているので、相手から知らないことをつきつけられたとき、まずは調べる。そして調べたとしてもその結果について断定など絶対にできない。知らないのに断定するなんてもってのほかだ。なぜなら、一例を出すと朝鮮人従軍慰安婦は政府による強制の元で行われたというテーゼに対して、あったともなかったとも断定はできない。(どちらの立場をとるか、ということは選択可能ではあるが)もしかしたら今後強制された証拠がでてくるかもしれないし、でてこなければ強制がなかった証左となるからだ。オノレの主観に基づく話はいくらでも断定できるが(面白いと思うだとかイヤだとか好きだとか)、そうではない政治的な問題ともなれば断定できなくなるのがセオリーというものだ。

怖いのは断定してしまうことによって積み重ねられるある種の「イメージ」である。ベルグソン的イマージュはどうでもいいので簡略にスパっと述べてしまうとつまりよく言えば「うっかりさん」悪く言えば「知ったかぶり」をする人という風に見られてしまうことである。そういうイマージュの総体として語られるのは避けたいものだ。

避けたい、というのなら「日本人ならこうあるべきだ」と定義してしまう事も避けたい。私は日本語がかなりあやふやな人間なのでそんなことを言おうものならweb上で発表した全ての文章をチェックしてしまいたくなる。例えば「すべからく」を「全て」という風に誤用していたりすると、「日本人ならどうのこうのというくせに、日本語すらまともに使えないのか」と冷笑されかねない。私は見栄っ張りなのでそんな馬鹿者と思われてしまうようなうっかりはなるべく避けたいと小心に考えてしまう。ダブルスタンダードを用いる人というレッテルも、避けるべき命題ではある。

見知らぬ誰かに自分の言説が説得力を持つものに思わせたいのなら、それなりの知識、具体例、数字を提示しなければ、相手の信頼を勝ち得ないのではないだろうか。であるがゆえに、和食認証制度についてもマツオカという大臣がBSE問題のとき、いわゆるドウワ利権の後押しの結果どのように暗躍したか、あるいは当時の武部農水大臣がそのためどれほど大変だったか(だからこそ彼はその突破力を見込まれて幹事長に抜擢されたといわれるわけだが)ということを知らないと「正しい和食文化を伝える」などというお題目に釣られてとびついているとみなされてしまう恐れがある。個人的見解を述べるならば、BSE問題のとき、ドウワ利権のために簡単に国民の食生活安全保障を放り投げたマツオカが「日本の食文化を守れ」などとよく言えたものだ、まさに「おまえがいうか」であると思うが、それもあくまでも私がドウワ利権の真相などという怪しげな本や資料その他により独自に調べた結果であるので、共感する人は少ないかも知れない。

和食認証制度委員会のお歴々や議事録を流し読みする限り、こんな仮説を妄想したがどうだろう。委員会の面子は外食産業の大立者であり、仮に彼らのうちの誰かが経営するドコカがアメリカに出店するとする。そこで政府は認証制度を適用し、そうなると認証制度を大々的に前面に出した広告展開をそのチェーンは行うだろう。チェーン店舗にむけて農産物などを輸出すればそれだけで飽和状態にある国内生産物で利益を出すことができるわけで一挙両得とまではいかないかもしれないが、少なくても赤字農家対策にはなる。農村の堅実な票がきたる参議院選挙で期待できるようになれば、内閣支持率が下がり県知事選挙でも無所属候補にやぶれ打開策が見出せない自民党には心強いだろう。さてこんな三秒ぐらいでデッチあげたようなネタでも、2億3000万の血税を費やすことを考えれば「海外じゃなんでも刺身で食うから和食認証制度を導入せよ」なんてハナシよりも説得力はあると思うがいかがだろう。上記のような推論(サシミじゃないよ)の場合、国益という観点から考えればそれでいいじゃないか、と肯定論として考えることも可能であるわけだし。なんにせよ刺身よりは話として通るだろうと、私は考えている。

先に結論ありきで考えるとどこかの学者モドキのように、相手が書いてもいない文章を書いたと主張したり、あるいはミトコンドリアなどとウサンクサイネタで勝負せざるを得なくなる。(そういや、改訂のたびにこっそりと問題記事を削除したり変更したりするので、初版本と重版本で内容が違うという椿事が起きたジャーナリストモドキもおりましたな)誰かに自分の言説を認めてもらいたいなら、それなりの下調べをした上で主張しないと、単にアレな人といわれて終わってしまうのではないだろうか。私はアレな人ではあるが(是は断言できる)、これ以上処置なしとは思われたくないので、せいぜい小心者は小心者らしくチマチマと調べた上で書いていきたいと考えている。

以上、今回の和食認証制度をめぐるTBの件において私の思う二、三の事柄。以下はこちらの記事に対する反論です。

・まず刺し身うんぬんというのは賛成の、なんら有効打にならない。なぜなら、海外の日本料理屋で寄生虫がいる魚を刺し身にしている店がどれほどの割合であるか具体的な数字がないから。具体的なパーセンテージを提示しない限り、すべては憶測に過ぎない。また実際に摘発された店があったとしてもそれは当事国の衛生法のもとで裁かれるべき事案であり、それと日本食文化が誤解に基づいて調理されているということはイコールにはならない。特殊事例を用いて全部がそうであると断定してしまうのはあまりにも危険である。例えば日本では川魚を刺身に出す店があるからといって、全ての店が川魚を刺身にするわけではないからだ。そして重要なのはこの案が発案されたのは日本料理が(調理法ではなく)味覚として独自解釈されている恐れが有るからであり、認証制度を導入しようという立脚点は、海外で寄生虫のいる魚を刺身にしたからではないのだ。この問題において刺身にようなトンデモを持ち出すのは、ナイフの危険性について語っているときに(アーミーナイフは学校に持ち込める、いや包丁だってみたいな)突然石器や黒曜石をもちだしてくるようなもので、なんら関係ない上に困惑するだけである。

・民間による和食認証制度はフランスで行われている。在留邦人団体が独自にガイドブックを発行している。これは最近報道されたものなので検索すればヒットするでしょう。ヒントは毎日。ゆえに海外で民間団体がそのような認証制度を行ったことはないというのは事実に反する。

・海外の日本料理店を利用してアヤシイ日本食を食べさせられた(とするなら)客が実際にいつどのように日本に対して抗議したのか。具体的に日本政府が対処すべき問題なのか。仮に認証レストランなるものができたとして、本当に(おそらく大半は「正しい」日本食かどうかなんて考えてなくて安くて日本風の食事がしたいだけの)客がそれを目安にして店を選ぶかどうか。本当にできるだけ「正しく安全な」日本食が食べたいというほどの客ならば自分で探すだろうし直接日本を訪れるだろう。(政策としての効果・有効性が低い)。それは単にガイドブック頼りの(海外で日本食を食べたい)日本人観光客のためにしかならないのではないか。日本の「ブランドイメージ」(などというものがあるとして)をそんなに危惧するのなら、「女性は子供を産む機械」と発言するような政府首脳の存在(しかも発言者は国民の健康福祉に携わる省庁のトップ)自体がよっぽど日本のブランドイメージを悪くしていると思われる。

・それから、日本の「ブランドイメージ」を気にするなら変な発言をする自国政府首脳のほうが問題であると述べたが、「国内の不祥事問題を理由にこの制度の是非を絡めるのは論点のスリカエ」という意見もある。しかしこの場合全く同意できない。なぜなら、政府首脳の発言は国内で報道されるのみならず即座に外電で海外に知られることになる。もし日本の「ブランドイメージを守る」、それが日本の国益だと声高に叫ぶのならば、どこぞの海外のアヤシイ日本料理店の刺身を気にするより、自国政府首脳の問題発言がどれだけ日本の「ブランドイメージ」をぶち壊し海外に在住する日本人が恥ずかしい思いをするか気にするほうが、よっぽど国益にかなっている。

【まとめとおことわり】だいたい記事にした後で、どういう概要か農水省の発表を読んでるあたりなんともかんともではある。元ネタにあたって真偽も確かめずに記事にするようじゃ、まるで朝日新聞並みの飛ばしっぷりですな。以後私の記事に反論する場合は、憶測、他者の記事、あるいは一見関係するようで無関係なニュースソースではなく、議事録や団体の背後関係、あるいは日本の農産物の消費量、輸出に伴うメリット等の観点、つまり具体的な数字を上げて反論してください。そうでない場合はどのようなTBであれ無視します。んじゃね。


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