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ナイキ、宮下公園強制ホームレス排除問題についてこんな話をきいた [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

先日この問題に取り組んでいる方とお話しする機会があったので備忘録的に。

その方によると「そもそも渋谷区はホームレスを排除できればそれでよかった」とのことだった。

渋谷区の思惑:ネーミングライツはそれを盾にホームレスの排除(と今後の公共施設の民営化)をするために「考案」したものであって、ナイキでもどこでもかまわなかった。(市議会を通さない形で排除するために「整備」としたかった)
ナイキ側の思惑:宮下公園という場所を使って後発であるスケートボードを認知させ巻き返したい。

という双方の異なった思惑が「幸福な結婚」を遂げたために、反対運動も「分散」せざるをえず苦戦しているとの事。なにせナイキに「ホームレスを排除するな」といっても「それは渋谷区が勝手にやっていること。自分たちはスケートボードができる場所さえできればいい。苦情は渋谷区へ」といわれ、渋谷区側は「ナイキの依頼で公園整備をしているだけだから文句はナイキ側にいえ」とたらい回しにされてしまう。

とはいえナイキ側も介入しようとすればできるはずで、「黙認」と言われても仕方ないだろう。しかしスケートボードとはうまいとこに目を付けたな、とは思う。スケボー利用者が駅や公園といった公共の場を利用する事で事故や他の利用者から苦情がでていることは周知のことで、そういうところへ「場」を与えるといえば、「どっちでもない」人々も「積極的に支持」する蓋然性がある。(駅や公園でボーダーにぶつかりそうになった事あるでしょう?そういう人たちが駆逐できればいいと思いませんか、と甘いわな)渋谷区はホームレス対策には積極的ではない。本腰をいれると面倒だから。

そういうわけで「排除の論理」を発動できて(体裁さえ整えば)なんでもよかったといえる。なかなか難しい問題だ。結局はここでも「vs新自由主義」という図式だったわけですな。そして痛い目悲しい目にあうのはいつも弱者だ。


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イマサラこんなコピペに反応するのもどうかと思うが [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

7 :名無しさんの次レスにご期待下さい:2010/09/23(木) 08:31:52 ID:IkyufdYM0 佐賀光江さん(41)は「長男を高校に行かせたいし、野球が大好きな次男をシニアチームに入れてあげたい。 でも、母子加算が削られ、灯油も値上がりし苦しい。風呂を週2回に減らした。これ以上何を削ればいいのか」と話した。 昨年度、佐賀さんに支給された生活保護費は月額26万5820円でした。 内訳は、食費・被服費などの生活扶助1類費が13万5030円、光熱水費など生活扶助2類費が5万200円、 母子加算2万4230円、教育扶助1万9360円、住宅扶助3万7千円です。 「家賃、光熱水費を払うと、食べさせるだけで精いっぱい。いつも月末の財布は空っぽです」 http://kin-ikyo.seesaa.net/article/43392898.html

「27万では不満、もっと欲しい」とゴネる茶髪の佐賀さん一家 http://www.zenseiren.net/osirase/news/2009/1952/no1952.html

まあこんな旧聞+コピペに反応するのもどうかと思いますが気になったので書いてみる。

こういうコピペがまたも最近2ちゃんに貼られているようです。でもってリンク先調べると、この方、シングルマザー/子どもが小中高と3人いるご家族。3k住まいで風呂は隣家と共同。物価について在住者ではないのでよくわからないけど27万って目くじら立てるほど多いか?っていう印象です。この年代の子どもって一番金のかかる時期だし。この件を検索してたら「3kなんて広い所に住むな」http://totti59.exblog.jp/7880919/とか書いてる人がいてワロタ。お前間取りみたんか!?(元記事をみると「一軒家を二世帯に区切った変則的な間取り」となっていてあんまり快適そうには思えないけど。)

またこのコピペのなにが嫌かって「茶髪の」との前フリ。これはもう「生活保護受給者のくせに茶髪にしやがって!」っていう意図が込められていると私は思う。(げすの勘ぐりですが)世の中には「ホームレスはタバコ吸うな」「生活保護受給者は寿司を食うな」とか凄い言葉を平然と吐く人もいますが(正論ヅラして)そういうのに感じる「不寛容」な価値観をごり押しする感じがここにもただよう。本当に嫌だ。生活保護で遊んでいる人がいたっていいじゃないか。そういう「多様性」や「寛容」を担保している社会じゃないと「息苦しくてしょうがない」。(そもそも生活保護受給者全員が全員そういうわけじゃない。餓死する人や熱中症で死ぬ人だっているくらいで。)茶髪にしようがいいじゃないか。

このテのコピペを嬉々として(あるいは使命感とやらに駆られて)貼っている人ってどういう人なんだろうね。まさかテメエは親の金でぬくぬくとPCの前で漫然と座っているだけじゃねえだろうなあ。「情けは人のためならず」という言葉についてもっと考えようぜ。明日アンタがそうなるかもしれない、という想像力がどうして働かないんだろうねえ。


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「道化師」から浮気について考える二、三の事柄 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

モノゴトを系統立てて調べる癖のない私は、つまり「つまみ食い」となる傾向が非常に強いといえる。例えばジャズならアフロキューバンやフリー、なかでもディジー・ガレスピーとか、もちろんコルトレーン、ドルフィーなどと、好きなジャンルでしかも好きな演奏家しか聞かないという偏り具合である。だから誰かに「オススメは?」ときかれても答えることはできない。

そういう私にとってオペラといえば「道化師」なのである。トスカも椿姫もニーベルングの指環も吹っ飛ばして「道化師」である。一度もナマで見たことがなくフランコ・ゼフィレッリが演出したのをyoutubeで視聴したぐらいだが(ドミンゴがすげーんだよ。下記動画参照)、とても好きで、ほとんど熱烈に愛しているといってもいいぐらいだ。

「道化師」のすじを簡単に説明すると、旅回りの一座がある村にやってくる。座長である道化師のカニオには年の離れた妻(兼一座の花形女優)がいるのだが、妻はこの村に愛人がおり、駆け落ちしようともくろんでいることを知る。芝居がはじまり、その台本と現実の区別がつかなくなったカニオは舞台上で妻を刺し殺し、助けに来た愛人も刺し殺してしまう。そして「喜劇はこれで終わりです」と呟いて、幕は閉じられる。

有名なのは「衣装をつけろ」というアリアで、「どんなに悲しくても客を笑わせるのが道化師だ、衣装をつけろ、舞台に立て」と自分を励ますよりもたぶんニュアンスとして自嘲的な意味合いのほうが大きい内容である。映画「アンタッチャブル」で使われており(デ・ニーロふんするアル・カポネがこのアリアを聴いているときにショーン・コネリー襲撃の知らせを受け、アリアに感銘し泣きながら口元がうっすら笑うという凄まじい演技を見せている。ひかりごけにおける三国も確かはじめて人肉を喰うシーンでちょっと笑うんだけど、ああいうところにリアリティをもたせられるというのはなまなかではないと、私は思う。閑話休題)それによって記憶に残っている人もいるのではないか。かくいう私もその一人。

この「道化師」を私はしょっちゅう聞いているんだけど、とはいえ、カニオに自らの身を重ね合わせているわけではない。たぶんそうならば、聞くことすらできないだろう。(それほどあのアリアは真に迫り、ゆさぶる)浮気をしたことはあれ、されたことのない(たぶん)身の上だからこそ、喜んで聞けるのかもしれない。

私は浮気したことはあるけど、浮気されたことはない。とはいえ、私はとても鈍いので、単に気づいてない「しあわせな人」なのかもしれないけど。

二股の経験もある。結構長くて1年ぐらい続いた。そのときはちょっとフクザツで、何人か女性が取り巻いている男が好きになり、そこに割り込んでいった状況だった。彼には20年付き合っている女がいて、結局私がふんだくった形となった。そんなことをしたのは後にも先にも、彼だけである。それだけ好きだった。

ところが、とどのつまりそういった状況はオノレの心になんらかの影、というか鬱屈を生じさせる結果となる。彼は女と別れる気配がないし(今になって思えば20年の付き合いを「はいそうですか」と即座に切ることができないのは心情としてとてもよくわかる。若いというのはモノ知らずであると同時にひどく残酷なことだ)、彼からの連絡をいつも待っているような状態は不安で消耗する。そういう鬱屈をトレーニングで消化できるうちはよかったが、だんだんとその手の「ごまかし」も通用しなくなっていった。そこで私は男を作った。自分がされているのと同じことができる男を。(虐待の連鎖っぽい話になってきた)

つくすことが幸せと自己完結できる人はいいが、そういうある種特有の自己陶酔で目くらましができない、自意識の強い女というのはこういうとき不幸を拡散させる。二股相手は私には彼がいることを知った上で付き合っていた。「彼と会うから家まで送れ」といっても素直に送ってくれていた。些細な喧嘩から私がキレて別れてしまったけれど、今考えると非常にもったいなかったなーと思う。後悔が先にたったためしはない、とはいえ。そんなババアの四方山話はさておき、明確な浮気相手(二股相手?)はその子ぐらいで、そのあとは実におとなしかった。(彼が20年来の女と別れたってのはあったけど)彼と本格的に別れようと決意して、他の男を捜すようになるまでは。(まあそれが例の5股して体ぶっ壊して入院する羽目になった例の一件ですよオクタマ)

なにがいいたいかというと、そういう私の経験則で言えば、浮気するのは相手に不満があるからに他ならないっちゅーことです。考えてみりゃ当たり前の話で、相手に不満がないのに浮気するとなるとなにか別な病気を疑ったほうがいいかもしれない。もっとも「不満がない」と自分を誤魔化している可能性もあるので一概にはいえませんが。もちろん相手には問題ないけどどうにもならない現状に対する不満ってのもあるかもしれない。そんな風にあのときの自分を正当化してみた。ああSサマ、あのときはそんなわけだったのだから、どうかゆるしてください。

「道化師」で刺されていたのは私だったかもしれない、とふと思う。
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結婚詐欺犯だからといって連続殺人犯となるわけじゃない [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

例の「34歳女性による連続不審死事件」について。

マイミクさんの日記のところにちょこっと書いたんだけど、松本サリン事件でマスコミは嫌な学習をしたんじゃないだろうか。文句の出なさそうな奴なら袋叩きにするという方法論を。

以前の東金事件のときも、その取材方法に吐き気がするほどウンザリしたけれども、今回もそれに近いことを思っている。相変わらず中学時代の卒業文集に書いたのをひっぱりだしてきて、あれこれプロファイルもどきをやるとかさ。みなさん、卒業文集はウケ狙いとかええかげんに書くと、ケーサツに疑われた際こんな風につかわれますよー手を抜いちゃいけないよホントに。閑話休題。

今回の報道攻勢というか嬉々として吊るし上げている姿をみると、無謬性が担保されないからといって人権を蹂躙していいってことじゃないだろと、語弊を恐れずにいいたくなる。現段階では、まだ「疑惑」であって、恐るべき連続殺人を行った冷血女ってのが確約されたわけじゃない。連想するのは和歌山カレー事件だな。保険金詐欺を働いていたからといって、大量殺人を犯すわけじゃないんだけど、イコールにしてこいつが犯人だといわんばかりに報道していた。考えてみりゃこの手の路線はロス疑惑の頃から変わってねえといえばそうなんだけど。

いま報道されているのは、警察から流れた情報であるということを忘れてはいけない。仮に、あの結婚詐欺犯がやはり連続殺人犯だったとしても、その判断を待つぐらいの時間はあってもいいんじゃないだろうか。逮捕もされてない段階で、顔を晒せ実名を出せ高く吊るせはやっぱりおかしくないか?

だから私は今回の件について、今はまだ、結婚詐欺という問題についてだけ語ろうと思っている。
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思いつく感覚的ななにか [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

寂しいのとも違う、なにか不安定な不確かな気持ち。会いたくて話したいけど、そうはいかない。特にいいたいことがあるわけではなく、ただツマラナいことで、ぶーぶー言いたいような、そんな感じ。

偽キョウダイと話してるとなぜ気持ちが落ち着くのか考えていた。彼女とは年齢はもとより国籍・人種すら違うんだけど、説明抜きで話せる上に、自分が本来持つ女性的な部分を、よい意味で引き出してくれてるからかもしれないが。
ミッチェルと話すのも遠慮がなくてよいのだけど、どうしても男性的な面が自分の中で大きくなってしまう。意識させられる。それは自分であるけど、自分ではない。好きな人と話すときはまた違って、見せたい自分なんだな。肩の力は抜けない。(これは私が相手を好きでいる限り不変だろう)
勝手に私を「自分のすべてを理解し受容する女」扱いされるのも嫌だ。マドンナを止めれば豹変し罵倒する。どうして私がそんな役割を背負わされなきゃいけないのかがわからない。みんな都合のよい「わたし」が好き。

昔から女性は怖かった。彼女たちから自分は女ではない、異質ななにかと常に認定されている気がして。過度に女性的な体型なのも嫌だった。「女性」というものが今でもわからない。こうして形而上学的に考えてしまう限りやはり自分は「おんな」ではないように、思えてくる。
「女性」がこわい私を受け入れてくれた男性もまた怖い存在には変わりない。友達の筈なのに性別としての「女性」を求めてくる。それはマドンナか娼婦かの違いでしかない。もしくはその表裏としての「男」か。違う自分にたえず向き合わされることには違いない。

偽キョウダイはそういう私を引き剥がして、もうひとつの可能性としての私を見せてくれる気がする。5歳のときのアレがなかったとしての自分。早く知りすぎることのなかった自分。女としてノビノビと剥き身になってるのに痛みよりも安らぎを覚えるのはそこからかもしれない。

彼女は「世界はもっと瑠璃子さんを抱きしめるべきなんだ」といった。私は思う。あなたのような人に抱きしめてもらえればそれでいい、と。

おやすみなさい。また明日。

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恋愛について私がおもう二、三の事柄 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

あまり書くこともないだろうし、たぶんこのネタについては一度ぐらいしか書くつもりもないのですが。

いま私には好きな人がいて、その人とどこかに出かけたりすると大変楽しい。(そもそも顔を見られるだけでうれしい)一日のうち何回か新しい気持ちになる瞬間もある。まさしくこれは「恋愛感情」で、それ以外のなにものでもなく、そしてもしかしたらいまがいちばんそういう感情が強いときなのかもしれない。私とその人がどうなるのか、それはわからない。つきあうかどうかも(さまざまな要因があって)まだよくわからないくらいだし。ただどうなるにしろ、長く一緒にいればいるほどやがてはこの「恋愛感情」というものはよくも悪くも消え去っていく、じょじょに、というのは残念ながら理解できる年になってしまった。

「恋愛感情」が消えたあとはどうなるんだろう。結婚もしたことがなければ同棲もしたことのない私だけれども、ぼんやりと想像するのは、お互いが空気みたいな存在になって、なんとなく一緒にいる、そういう態様へ変化していくだろうということは想像できる。「それらしき経験」も,少しはあるから。それを「情」と呼ぶか「絆」と呼ぶか、そこは人によって分かれる見解だろう。でもおそらく同じ状態を呼びあらわしていると私は思う。多くの恋人たちは、この分岐点にさしかかり、脱落するか、添い遂げるか、選択を迫られる。この選択はたとえ勢いで結婚したりした人たちですら逃れられないんじゃないか。その分岐点には絶対にさしかかると思う。結婚していれば社会的制約やら世間体やらといった「おとなの事情」で選択していくんだろうけど(もちろん「おわかれする」という選択をするひとたちもいるだろうね)、恋人たちの場合、そういった「おとなの事情」がない分、その「選択」には耐性がなく脱落しやすいと思う。

だが脱落したからといってそれは誰の責任という訳でもないと思う。ただそれはそうであった、それだけのことではないだろうか。長く続けることができない相手だった、と思うべきだと私は考える。求めることはできても,続けることができない。そういうことだったんじゃないだろうか。

私の友達は「つきあったら結婚するか別れるかどちらかしかない」といったけれども、それは違う。どちらにしろ「選択」をする日がくる。そしてわたしはそんな選択をするときがくるのだろうか、とふと思った。


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ふとこんなことを思ったりして [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

ある個人に対する、才能や業績その他への「評価」と抱く「好悪」というのはまったく別問題であると私は認識している。だから人物的には好ましいし親しみを感じるが才能はないと思うこともあるし、才能も業績も非常に高く評価するが人間的には最低だ、ということもある。ところがそのあたりが未分化な人がいる。才能や業績への信頼と人間的な信頼をごっちゃにしちゃうってやつね。で、他者がその才能や業績に対する違和を表明すると、己への攻撃と思ってしまったりする。非常に近視眼的なものの見かたなんだけど、多くの人が陥りやすいともいえるかな。山崎行太郎なんて人もそうだけど、ある見方において優れた人でも陰謀論を展開していたりするので、その人に対して帰依するような真似だけは避けたいと以前八木秀次に騙されていたことを知ってネトウヨから洗脳解除された私は思ってしまうわけです。これは私の持論なんだけれども、ある見方・議論において「粗雑」な人が別な見方・議論において「粗雑」でないということはあまりない。たいていは満遍なく「粗雑」で、満遍なく「慎重」である。なぜか。人は知れば知るほど「断言」なんてものはできなくなってくる。ある見方が別方面から見た場合容易に否定されるなんてことはよくあることだからだ。知るということはつまりそういう複眼的視点を「獲得」することであり、そのため(使い古されて鼻紙にもならない言葉だが温故知新)「無知の知」を自覚する人ほど、「慎重」になる。この間ちょっとインテリとは何ぞや?といった話がでたけれども、畢竟私が考える「インテリ」ってのは、この「知らない」ということに対してどこまで自覚的な人か、ということにつきる。まあその辺を逆手にとって「騙す」ような人が一番タチ悪いって気がしますね。知らないなら知らないでいいじゃない。別にアンタが発言しなきゃ世界が終わるってわけじゃないんだからさ。※たまになぜか「俺はその問題について興味がない」ということをわざわざ「表明」したがる人がいる。あれも不思議。そんなことをなんで絶叫してこちら側に知らせるんだ?だったら黙ってろよって思います。別にお前に「コミットしなきゃならない義務」なんてないんだから。
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「嗚呼満蒙開拓団」を見に行くことにした [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

本日はシネマヴェーラ渋谷で「赤い髪の女」なんぞをみるわけですが、その前に岩波ホールで興味深い映画をやっていたのでそこらへんから攻めるつもりです。

嗚呼満蒙開拓団http://www.iwanami-hall.com/

昨日早稲田松竹でチラシを見て、そこに書いてあった証言を読んで、にわかに信じがたく、と、同時に結局日本ってなんも変わってないじゃんと思ったのでした。概略をまとめると、食うや食わずの生活をしていたので役所に相談したところ渡満をすすめられた、曰く満州へ行けばお米もたくさんあるし、作物は誰にでもできる、など。何度も勧誘され、一家で満州へわたることにした。そして満州に着いたのはなんと昭和20年5月26日。証言者は父母や妹を失ったという。あまりのことに申し訳ないが一瞬証言を疑ってしまった。知っての通りこの時期すでに敗戦の色は濃いどころではなく、この一ヶ月後に沖縄戦は壮絶な玉砕で幕を閉じることになるわけだから。当時の渡航状況がいまとは比べ物にならないとはいえ、一ヶ月かかったとしても、東京では大空襲をうけたあとだったりしたわけで、正気の沙汰とは思えない。なぜすすめたんだろう。おそらくは(これは今にいたっても同じことが行われているのだが)「そうしろと上に指示されていたから」なんだろうな…。

開拓団の避難所があった中国の方正地区には開拓団の慰霊碑がある。それは、開拓団にいた女性が助けてくれた中国人と結婚し、その地で暮らしていたところ、畑を開墾したら大量の日本人人骨がでてきたため、周恩来に嘆願しその指示によりたてられたものであるそうだ。

日本は移民政策ではなく棄民政策であるというのはよく言われた話で、それは移民したものを家族に持つ私も実感している。(琉球政府制作の移民奨励映画も「いまの沖縄本島には土地に比して人が多すぎるから移民しろ」なんていってたなあ。米軍基地減らせばいいんじゃね?と即座に思ったものだが。もちろんそんなことは簡単にできないことは承知の上でなおその「気軽さ」に腹が立つ)そのひとつの、非常に悲惨かつ端的に現れたのがこの満蒙開拓団なのだろう。見に行ってきます。


あと↓「花と兵隊」こちらも上映開始されたらいくつもり。未帰還兵についての映画です。http://www.hanatoheitai.jp/


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崇高は美に勝り、なんて。 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

こんな記事を読んだ。
美人なのに恋愛対象外!の理由とは?
http://allabout.co.jp/gs/loveaffair/closeup/CU20081029A/

で、つらつら考えたことを。

あのツルゲーネフが一生をささげた(といってもいい)女性、またツルゲーネフだけではなく、ショパンやらベルリオーズやらさまざまな芸術家のエゲリヤとなった女性、ポーリーヌ・ヴィアルドは岸田今日子は美人なんだなと思えるほどの容姿をもったオペラ歌手だ。だが「衝撃的なまでに醜い」といわれた彼女は前述したようにさまざまな男性をとりこにした。それはなぜか。

また日本にも岡本かの子なんて人がいる。彼女は不器量かつ巨漢で、谷崎潤一郎から悪趣味の塊などと忌み嫌われていたりした。だが、彼女は自分の愛人と夫を同居させ(夫妾同居?)他にも崇拝者がいて(彼は岡本家の家事一切を取り仕切っていた)そして彼らと欧州旅行に旅立ったりしている。また彼女の小説の下地作りなんかもしていたようだ。なにが彼らをそこまで駆り立てたのか。

綺麗で頭がよくて機知にとんだ会話が出来て…なんて人がいればそれはそういう人が一番いいのだろうが、「ワンアンドオンリー」の魅力をたたえた人がいて、そしてそこに惹かれてしまえば、美醜は関係なくなってしまうのではないだろうか。あまりにもワンアンドオンリーならば。前述の二人はそういう意味では(歴史に残るほど)「たったひとりのひと」である。そんな「崇高」な人の前では、美だの醜だのってのはあまりにも瑣末な問題なのかもしれない。「美」はいつか変化して「劣化」していく。それは加齢だったり価値観だったりするが。だが「崇高」はゆるぎない。圧倒的な才能といったものは時間がたってより熟成されていくこともあるし。

と、いうわけで、「美」よりも「崇高」のほうが経年劣化しづらい、と私は思う。整形して美人になるくらいなら、ワンアンドオンリーを目指せ。それが女子の心意気ってもんだろ。


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セックスに愛が絶対に必要だ!なんていわれると若いねとしか言いようがない [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

某所(mixi)で「セックスに愛は絶対に必要である」と主張されている方をお見かけしてちょっとそんなことを思いました。

性的な快楽は性的な快楽でしかなく、それをどういう風に位置づけるかはあくまでも「個人の自由」にすぎない。だってねえ、片方が「愛のあるセックス」と認識していても、相手は「金銭を媒介にしている愛のないセックス」としていた場合、その「愛」の定義はどうなるんだとか思ってしまいますわ。思考停止言葉のひとつでしかないんじゃないかしらん。「性交渉」という単なる動的な「行為」(行為は行為でしかなく、そこに意味や価値はない)と観念上の概念であり定義づけはたぶんに個々人の価値観に依拠する「愛」をコンドーするのはいい加減やめにしないかね?ちんまんにどのようなデルフォイのオラクルを見出すかは個人の勝手ですが、幻想を幻想と認識した上で消費するのが近代的自我の洗礼を受けた正しきオトナ(まんこから血を流して幾星霜、カルピスどぴゅっと悠久のときをすごした黒いティムポ)なのではないでしょうか。それに「愛のないセックスはいけない」というのならば、「愛のあるセックスだったらいいのか」ということになり、それはつまり世の男性諸氏がしばしば用いるあの魅惑的な「愛しているよ(だからスムーズ挿入希望)」というささやきを暗に肯定してしまうことであり、その結果「私の青春を返して!」と明け方のファミレスで叫ぶことになるのです。実際に見ました。相手の男性はうつむいていました。

まあ苦みばしった白濁液的追憶はともかく、行為は行為として単体で評価することが必要であり、あとは個人の裁量での判断となってしまう以上そこに依拠するのは危険なんじゃねーかと思うのです。性交渉において「愛」は必要条件であるとは思うけれども、必要十分条件というわけではない。また「愛」を至上命題としてしまうとその名の下に肯定されてしまう「行為」があるという視点は絶対に外してはいかんのです。 ゴルディオスの結び目はいつでも一刀両断すればいいというものじゃ、ないのです。

そこで私?私はといえば、そんなあやふやで正体不明ななんだかわからない「愛」ゆえに、ではなく、自分が感情移入できる相手とだけセックスしようと思っています。それも倫理的にどうこうよりそのほうが楽しいという即物的な面が非常に強い。相手を楽しませ自分も快楽を得ようとしたら、かなり自己を曝け出さないといけないし、そうするためには相手と自分の間にかなりの「了解」を生み出す「親密さ」が当然のことながら必要になってくる。その「親密さ」を構築するためにはそれなりに感情移入できる相手ではないとならないし、またそうなると相手に興味がなければそこまでの関係性をそもそも構築しようという気にはなれない、という論法ゆえ「感情移入できる相手とセックスしたい」となるのです。まあなんですか「乳首に輪ゴムはめて鬱血させて、それを引っ張りながら、鞭で優しくなで上げて、騎上位でキメた後に馬になるから尻をたたいてベッドの周りを三周させて」なんてことをすんなりと口にしても「了解」がとれる無問題な関係性を作り上げてからセックスしましょうということです。「愛」よりもずっと直裁でイージーだからこそ確かです。そしてそれ以外は添い寝で十分です。


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