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そこじゃないでしょ(和食認証制度をめぐるあれこれ) [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

以前、私は、あるテクストを元にAとA'という風に解釈が別れる場合、その両方に対して理解できるという立場をとることが重要であると記したことがある。

「和食認証制度」という今後どういう運営がされるのか、現在発表されている政府概要だけでは、ハコモノ行政レベルで終わるのか(利権系)、それとも輸出推進路線(行政主導民間委託)でいくのかまだ見えにくい問題に対して、であるがゆえに、利権系となる恐れを指摘することも、輸出拡大につながると肯定する意味もよくわかる。両方の立場を取ることは可能である。論拠として理解できるので、議論として成立するといえる。

だが、例のあのお方のいうような「美しい国」レベルの言説ではどうか。つまり具体性を欠いた形容詞や例えをだされて反対・賛成といわれてもそれでは何の意味もない。伝聞レベルの内容で論拠を立てるのはデマを誘発するだけであるということは、おととしあたりに書いた「民主党沖縄Flash」問題で私は懲りている。

私の「和食認証制度」に対し疑問を呈した記事へTBを頂いたが、その方の記事を読んでそういう意味では少々フシギな感覚を抱いた。上記のような観点から賛成論を唱えるのならわかるが、刺身食べるから、という話しをもちだされてもなあ。日本や中国、東南アジア南米アメリカフランス(このうち「和食認証制度導入問題」になっているのはアメリカではあるけれども)の、いずれの国もそれぞれ食品衛生法というのは存在するとは思うし、違反すれば処罰されるのはその担当者であり、批判されるべきは衛生法を違反した人間であり、その料理を伝えた国、ではない。恐ろしいのは(鳥インフルエンザのように)風評被害であって、正直、具体的論拠に依拠しない話はどんなに優れていたとしても、風評を広めている謗りからは逃れられないと思う。私がブラジルにいたときも、当時流行っていた赤痢の原因が刺身とされたが(その割りに生水がんがん飲んでるから馬鹿だなとは思ったが)、風評はいわゆる「人の噂も七十五日」であって、売り上げ減はむしろその後に乱立することとなった日本料理店によるもののほうが大きかった。いくら「民度」が低くても衛生法にまで首を突っ込むのは筋違いどころか内政干渉にあたる恐れもなきしもあらず。肯定反対ともにそんなところを論拠にはしてはいないと思う。

そういうわけで刺身を食べるから、なんていう論点を持ち出すとかなり変な方向にいってしまうのではないだろうか。そんな「例え」をだすとどこかのいぢわるな人から「日本は賞味期限切れの牛乳を用いる企業があるから、カフェオレはフランスの、カフェラテはイタリアの、ミルクコーヒーはアメリカの、それぞれの国から認証制度を要求される」なんてまぜっかえされて終わるだけと老婆心ながら申し上げる次第。

まあでもこういうことはねえ、皇統系譜問題でもどこぞのアレな学者さんが「ミトコンドリア」だのといった変な話を持ち出して失笑を買ったりしているからなんともかんともなんですけれども。

※元ネタになっている人から上記の「期限切れ牛乳云々」について指摘があったので記すが、これを書いたのはあるいぢわるな人である。元ネタ記事へのコメント欄では誰が言ったか明記しないで記したのだが(迷惑かかるというよりもだれだれがどういう風にいってましたがとコメント欄の中へ書くことにあまり意義をみいだせなかったからだ)どうも私本人の発案と思われているようなので注意書きを記す。このブログ記事はそのいぢわる(だけどステキ★)な人もみているので出展元を記しておいた。でないと著作権もしくは発案料を請求されるかもと被害妄想気味に思ったり思わなかったり。


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子供にDQN名付ける親は死んだ方がいいと思う [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

「DQN名ランキング」
http://dqname.selfip.net/

「亜菜瑠(アナル)」だの「煮物(ニモノ)」だの「しいたけ(シイタケ)」だの「幻の銀侍(マボロシノギンジ)」だの正気とは思えない名前が続く。出展が2ちゃんなんで嘘だとは思いたい。ネタであることを祈るが「ラッキー星」くんは実在するしなあ。こんな改名裁判しなきゃならんような名前つける親は自分がその名前になるかいっぺん死んでみたほうがいいように思える。もはや虐待ですよ。

とはいいつつも私の友達も上記サイトに掲載されている名前を子供に付けてしまった。事前に相談してくれれば全力で阻止したんだが(縁を切られるのは覚悟の上)事後連絡であえなく撃沈。付録の名前辞典にこんなのばっかり載せているたまひよ(たまごクラブひよこクラブ)の編集部は頭おかしいというか日本の伝統文化を破壊するためにどこぞから送り込まれた赤色革命勢力なのでは?まあ南アルプス市なぞとキッカイな市名にして喜んでるくらいだからもうDQN名ぐらいつけなきゃスタンダードじゃねえのかもかもしれんな。もはや伝統的な日本なんてハリウッドインチキ映画の中にしかないのかも。

ちなみに上記サイトにはエ~シィイ~こと公共広告機構はDQN名撲滅キャンペーンやれYO!という提案がされている。秀逸なレスがあったので引用する。

**

106 :名無しの心子知らず :sage :2006/12/12(火) 01:45:14
こんなのはどうだろう・・・ちょっと考えてみた。

幼稚園の入園式で名前を呼ばれて返事をすると、
保護者達からどよめきの声がする。
自分を訝しげに見る大人たちに「?」の顔の子供
小学校に上がり、机に座っていると数人の子供がからかいに来る。
中学生になってもそれは続いていた。
どんなところで名前を呼ばれても、周りの人が皆振り返って自分を見る。
怪訝な顔をしたり、笑っている人もいる。
からかいのつもりで名前を大声で呼ばれ、思わず耳を塞ぐ子供。
涙が頬を伝って流れている。
ナレーション「一生使うものです。名前、大事です。」
大人になった子供が、名刺を画面の前に差し出す。
名刺は真っ白で何も書かれていない。
台詞「名前で傷つく子供が一人でも減りますように。」
コーラス「エーシィィィィー♪」

**

これ、本気でやらないかな。私も名前で苛められた人間なので、変な名前をつけられた人の気持ちが多少分かる。フツーの平凡が一番いいんですよ。だいたい政治家でも有名人でも芸能人でもDQN名ついているヤツみたことねえだろ?自己実現自己表現は人生でやるもの。名前でする必要は無い。とにかく名前付けるときはその子が80ぐらいになって○○おばあちゃん○○おじいさんと呼ばれる姿を想像して付けろ。80まで生きるアナルちゃんなんて想像できないだろ?かわいい~★名前つけるのも結構だが、てめえの腹具合でもちょっとみりゃ、花の命の短さぐらい把握できるだろうにねえ。なんにせよ客観性というのは大事なんですよ。


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体験か想像か--「青学ひめゆり退屈問題」と「硫黄島からの手紙」 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

「硫黄島からの手紙」を見た後、思い出したのは2005年6月頃起きた青山学院の入試問題だった。かなり旧聞となるが「ひめゆり部隊」の語り部の話す内容が退屈だという読解問題を入試にだして騒がれた、あの一件である。もうそんなの覚えちゃいねえよって感じだろうなあ。以下の記事はそのときに記したものである。

ひめゆりの語り部は無力なのか(1)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-14
青学ひめゆり「退屈」問題、総括すべきはどちらか(2)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-15


特に(2)には問題となった読解の全訳を載せているので、参考いただければ幸い。(ようは「戦争体験なんて語られるだけじゃ実感できないからダーメ。擬似体験したらホーラこんなにわかっちゃった!」ということがいいたかったのではないかと)この問題が持ち上がったとき、あちこちのblogを流し読みした限りでは「沖縄左翼マスコミ陣が騒いでいるだけのことだ」みたいな意見が趨勢を占めていたような記憶があるが違うかもしれない。私なぞはこの入試問題を(言葉の本来の意味での)確信犯で教師が作っていたのなら、ある種の敗北宣言だなと思った。なぜなら教育というのは想像力を養う側面が非常に強いわけで、イチたすイチはニであることをりんごやナスを使って「体験」させることは可能だが、三次元方程式だのになるとそんなことを試みるほうがどうかしている。ましてや徳川家康やら足利尊氏やらを「体験」することなど(当たり前だが)不可能である。だが想像力を駆使すれば「体験」することは可能であり、そのように考えていけば、思考力とは想像力ではないかと私は思っている次第。つまり、“戦争体験は語りではなく疑似体験させなければ理解できない”との主張は、“うちらは想像力を養うような教育ができていないんですよ”という暴露じゃないのか。敗北宣言だなと思ったのはそのあたりを指している。

実際のところ戦争の恐怖を追体験させることに何の意味があるのだろうか。外人部隊かなにかに入らなきゃ分からんというのはある意味事実なんだろうけれども、それは悲劇の再生産であり、あの「痛み」を他の誰かに味わわせないためにひめゆりの語り部は自らの痛みをさらけ出し、つらい思いを吐露しているのではないだろうか。実際に体験しなければ分からないという言葉ほど事実であると共にむなしさを感じさせるものはない。私がスティーブン・スピルバーグ製作の映画「プライベートライアン」をまったく評価しないのもここに由来する。Dデイの激しい戦闘場面を見ているうちに最初は驚き慄くがそのうちに飽きてくる。強い刺激に慣れすぎて同じことの繰り返しに見えてきてしまうのだ。本質的にはこちらのほうが畏怖すべきことだ。このあたりの感覚の喚起は、スピルバーグが意図していたわけじゃないのでよけいにイヤだった。

イーストウッドの描いた「あの戦争」は派手なアクションがあるわけでもなく、無残に人のカラダがはじけるシーンが多発するわけでもなく、ただ地味に彼ら一兵卒の日常と非日常が交差し、その延長線上にある死が(あるいは生が)淡々と絵が描かれるだけだ。だからこそ私は恐ろしい。「あの戦争」は別世界でおきた歴史的事実、記憶の中のイチ風景ではなく、「いまここ」の延長線上にある。沖縄で友人のご両親から戦争体験をお聞きした際も同様の恐怖を感じた。この恐怖は想像力の上に成り立っていることを私は熟知している。

「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」のニ作を通して鑑賞し、感じたのは(何度も書くけれども)クリント・イーストウッドの「意思」--ありのままの戦争を見つめ、あのときなにがあったのかなにが起きたのかを忘れないこと、それ自体が反戦なのだという主張であった。青学入試問題の件と映画製作者、両者のスタンスの違いを思うと暗澹たる気持ちになる。例の(「せんそうはもうにどとおこしてはなりません」「あのひさんなできごとをゆるしてはなりません」式の)思考停止状態がはぐくまれるのもむべなるかな。教える側が既に徹底的に受動的なのだから。(注意したいのはイデオロギーに基づいたアグレッシブさも「ありのままの戦争を見つめよう」というイーストウッドの「意思」とは反する。イデオロギーに絡めとられてしまえば「ありのまま」ではなく「見たいもの」しか見えなくなってしまうからだ。以上は映画「蟻の兵隊」に関する当方のレビューを参照ください)

イーストウッドの訴える「自ら学び取る意思」。青学ひめゆり退屈問題を思い出すとき、私は日本における反戦教育がこの決定的な欠点を保持し続ける以上、演繹的に導き出される解として再びいつの日か(朝日的意味合いではなく)軍靴の音が鳴り響くのではないかと憂えている。邦画において「反軍」映画ではなく「反戦」映画が作られる日がくるのはいつだろうか。そして積極的に「ありのままの戦争」を見つめるような反戦教育が行われる日はくるのだろうか。状況は絶望的だ。なんといっても阪神大震災で「あーまるで温泉のようです」などと当事者意識の欠如もはなはだしい御仁が、いまも沈痛な表情を作って「あのせんそうをにどとくりかえしてはなりません」とのたまっているわけだしねえ。


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語りすぎること見せること「ローズ」と「獅子座」にみる大衆と純文学 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

確かにいい映画だった「ローズ」だがどうにも違和感を覚える部分がある。これはハリウッド映画をみているとたいてい思うことなんだが、どうにもせりふで語りすぎるきらいがあるのだ。

例えば主人公の歌手ローズがツアーツアーツアーの生活で疲れている、という描写でも恋人が「彼女は疲れている」という一言で表現したりするし、それにしてはベット・ミドラーがあまりにも(表裏のなさそうな)元気っぷりなので「いやお前あれはどうみてもフツーに元気だろ」と思えてしまい、酒と男に溺れる彼女がなんだか激しく身勝手な人間に思えて感情移入がかなりしづらかったりする。

(なんども言及するが)「獅子座」の主人公も負けず劣らず身勝手な人物で、ローズとは違い、彼は生産すらしていない。それでも彼が戸惑い迷い鬱屈し屈託する様子を「あの人はお金がなくて困っているんだよ」などと(ハリウッド映画によく登場する)“善意の第三者”に語らせることはせず、ただ彼の目に映る風景や主人公の剃刀をあてられない顔といった『直接話法』を避けた描写で表現しているため、感情移入がしやすいのだ。

ここ何作かヌーヴェル・ヴァーグ作品を見続けて思ったのは、小説、特に純文学を書きたいと思うひとなら、ルノワール的作品群をみるのは非常に勉強になるだろうということ。脚本家を目指すならばヒッチコック的ハリウッド映画が大いに参考になるだろう。以前私はある人に「宿命を宿命と書いてしまえば文学としては終わりだ」といわれたことがあるが、ある事実--世界の多様性をどう相手へ伝えるか、そこをポイントにするのか、それとも物語(整合性といった部分での)の文脈を相手に伝えようとするのかでヒッチコック的なものかルノワール的なものか、立ち位置が変わってくるように思える。語る映画と見る映画、そんなことを考えたりしている。


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私たちは戦争を知っているのか--渡辺謙「日本人は戦争を知らない」より [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

渡辺謙は「日本人は戦争を知らない」といった。では私たちは本当に戦争を知らないのだろうか。義務教育を含めると10年近く歴史を学んでいるというのに? どちらかというと知る努力を怠っている、という風にわたしには思える。

例えばわたしは以前靖国神社の遊就館に関する批判を書いたことがあった。反論として書き込まれたコメントは「自分はあそこで日本の“正しい”歴史を知った。なんということをいうのだ」というものだった。おいおい、それじゃそこに正反対のことが書いてあったらアンタはそれを信じるのか? 鵜呑みにするのなら紅衛兵だってできるんだ。知る努力というのは自分なりの歴史観を構築するために調べたり読んだり見たり聞いたりすることをいう。1つのテクストを元に、それをどう考えるのか。テクストは与えられるべきだが、解を与えられてしまえば、奪われるのは個々人の思考である。

幸いなことにわたしは沖縄で戦争について直接(いわゆる語り部的な位置づけの人ではなく、普通に暮らすヒトビトに)話を聞くことができた。そこにあったのは、天皇を敬い敬意を顕わにする世代とその子供たちとの断絶であり、戦時と日常の曖昧さ、といった「生活」あるいはある意味「変わることのない日常」であった。だからこそ、沖縄戦は悲惨だったわけだけれども。

先日、報道ステーションで渡辺謙が(宣伝のためか)登場し、高校生たちと歴史について語り合う姿が放映された。事後高校生たちにインタビューするとこれがまあ紋切り型というかなんというか口々に「戦争はもう起こしてはならないと思いました」などという。それは当たり前のことだけれども、暮れの元気なご挨拶じゃないんだから、みながみな同じことを言うのはある種思考停止状態ではないか? わたしはそういう「解」しか誘導できない「教育」にほとんど絶望を覚える。

「父親たちの星条旗」では“ありのままの戦争の姿を見つめよう”と提議されている。ありのままの戦争。それを知る努力を我々は個々人で行うべきではないのか。その上でようやく「戦争を知っている」といえるのではないだろうか。戦争から半世紀以上経過し、経験している世代は少なくなっていく今、戦争を知らないことが当たり前であるからこそ、私たちは、自分たちでテクストを構成するべく「自力で」学ぶ必要があるのだと、私は思う。


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読書と筋肉 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

ウェイトトレーニングをはじめてもう8年になります、と自己紹介で話したところ相手から「読書と筋肉って相容れないと思うんですがどうでしょう?」とたずねられた。実は別に今回だけではなく、結構な割合で聞かれることが多い。しかし私の中では、相容れないどころか両方は問題なく同居するのだが、それは間違っているのだろうか。

ウェイトトレーニングは基本的にはスポーツに属するとは思うので、いわゆる「体育会系」とみなすことも出来る。脳みそよりも筋肉の比重が高そうなイメージ。だが、本質的にはスポーツの求道者的側面を特化させた運動であり、記録といった数字にはでにくくまた評価しづらいものである。体脂肪率が下がればいいってものじゃないし、奇形的な造形美を追求するようなものである。これはウェイトレーニングが本来的には「下ごしらえ」としての意味合い--筋トレをして鍛えてさてどのスポーツに生かすかというものであるからだと思う。野菜を切っただけでは料理として成立しない(煮るなり焼くなりあるいは刺身として使うなりしないと「料理」とは認められない)のと同様である。

そういうわけで私はこの運動をスポーツとは認識してない。単純に自分自身を練成するツールとして行っている。そういう意味では読書も映画も好きだから続けられるという部分もあるが、基本的にはオノレを鍛えるツールなのだ。そしてそれを行うからこそ自分自身を安定させることが出来るのであって、「やらなきゃいけない」というよりも「やらずにはいられない」のである。強迫神経症的?大いに結構。

だから私にはいずれも必要なのだ。私が私としてあるためには欠かすことが出来ない。そして今日も仕事で疲れた身体を引きずり、ウェイトを上げ下げし、本を読み、疲れきって妙に冴える頭を映画に集中させ、ゆえに安堵して眠りにつける。男を精神安定剤にするよりもよほど健康的ではないか。しかも「彼ら」はやればやっただけ、私にこたえてくれるわけだし。愛してやまない、永遠のわが「恋人」。


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「頭がいいね」 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

「頭がいいね」と社交辞令を言われて素直に喜んで得心するほど愚か者でない私は、いつもはあどうもと言葉を濁してあいまいな顔を作ることしかできない。

そもそも女にとっての頭のよさとはなんだろうか、と思ってしまう。当意即妙の受け答えか、はたまた新聞並にナニを聞いても有る程度答えられる知識なのか、それとも場の空気をそれとなく読み、相手へ気を配れる能力か。まあなんだ、もし仮に私がそういうものの総称としての「本質的に」頭の良い女だったら、こんなところで日々シコシコとなにかを書き連ねることなどしないで、23歳ぐらいでさっさと結婚して旦那様と幸せな家庭生活でも営んでいるわけで、そうできてないということは「生物学上」の観点からすれば「頭が悪い」としかいいようがないのではないか、と思っている。フェミニズムなんてファックです。

こういうふうに考えていると、形而上学的なことが必要な女の不幸についてつらつらと思いをはせてしまうのだが、女性週刊誌的な女の幸せに恵まれているのであればそんなものは不要で、そのあたりを考えれば考えるほどため息しか出ない女の秋のかなしさよ。つまりこんなことをぐだぐだ書いている時点で女としては「終わっている」ということ。

身体的顔面的コンプレックスを抱え、男のかわりに知識を喰らい、一人でも生きていけるわ健気な私と牙城を形成し、閉じこもってしまうことだけは避けようと思っているのだが、最近の己の情勢を見る限りでは、どうやらその「象牙の塔」へ引きこもらざるを得ないようである。

そういうわけで、私は頭の悪い女なんです。かわいげだけで生きていける女に来世では生まれ変わりたい、と淡い希望を胸に、手のダンベルダコを見つめウェイトをあげさげし、子宮にナニを詰め込む替わりに、今日も知識に食らいつくのです。「頭が良いね」と私にお世辞をいう君よ、それは皮肉か嫌みかあてこすりかと考えてしまう我を許したまえ。哀れなる哉、汝の名は女。なむさん。


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映画「蟻の兵隊」はなぜプロパガンダへ堕ちたのか [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

映画を見ていくつかの疑問が私の中で残った。それは決して後味のよいものではなく、濁りというか嫌なにおいのする澱のように、沈殿していたのだが、あるところをよみ、ようやくそれがなんであったのか、またあの映画がなぜプロパガンダへと堕落していたのかがようやく得心することが出来た。

自願残留か軍命か―山西残留問題の争点
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000252.html
日華事変と山西省blogより)

まだ私自身このブログの情報を精査したわけではないので、掲載されている内容が信頼に足るものかどうかは断言しかねるが、ただこの筆致の冷静さ、情報ソースの量とその明示法などからかなり信頼できるものであることは推測できる。詳細はこのテクストを読み込んでいただきたいのだが、端的にいうとなぜ「蟻の兵隊」という映画が単なるつまらんプロパガンダへと堕したのかといえば――ここに掲載されているような複雑な側面を提示せずに、問題を(ある意味都合よく)相対化してしまったことに尽きる。あの映画で描かれたように奥村和一氏などの原告団が正義で、認めようとしない政府が悪というような単純な図式ではこの問題を考察することは出来ない。

原告側に酷な言い方をあえてすれば、あの映画で語られている内容は、奥村氏らの言い分を一方的に流しているということもできる。このサイトに寄れば、ある種自らの意思で残ったといわれても致し方ない部分もあり、それが証明できる資料があったりもするので、やはり提訴が棄却されてしまうのもむべなるかなということがある。ただ、それはあくまでも論理上の話であり、情緒としてはまた別問題だ。私も「日華事変と山西省」の管理人氏がコメント欄で述べておられるように、特別立法かなにかで、原告団は救済措置をとられるべきだと思う。

映画の中で特に納得できなかったのが、途中から訴訟の話がどこかへ流れてしまい、奥村氏の『心の旅路』のような展開となっている点であったが、上記サイトを読み、これは単なる監督のセンチメンタリズムゆえではなく、訴訟の問題を扱うと、上記の内容に触れざるをえず、やむなくこのようなつくりにしたのだということがわかった。つまり扱いたくても扱うことが出来ないということである。映画が妙に口ごもっているような印象を与えるゆえんである。触れられないから捕虜虐殺というような別テーマをあえて持ち出し、問題を問題で解決しているといわれても仕方ないような展開にしたのではないだろうか。

それなら最初から訴訟部分にはあまり踏み込まず、異なる戦後を生きた二人の男を描けばよかったような気がする。つまり奥村和一氏と小野田寛郎氏というコインの両面のような――一方は使い捨てられ、もう一方は英雄として帰還した――対照的な戦後を通して、この国へ総括を迫るというようにも出来たはずだ。撮られることを意識できるもの同士ならば、あの「蟻の兵隊」の最後のように素人へ電波少年並にカメラの暴力を使って乗り込むような座りの悪い展開ではない、もっと壮絶でまた確実に正当な『戦争とはナニか』というテーゼをあぶりだせたと思う。素人でこれぐらい考えられるというのに、あの監督は何をやっていたのだろうか。

考えられるのは奥村氏に有利なようにすすめなければというような使命感だ。その使命感が強固であるがゆえにこのようなプロパガンダが出来上がってしまった。そのことがひたすら残念だ。


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「日本兵の質の悪さ」と渡嘉敷島集団自決事件 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

渡嘉敷島の集団自決問題で匿名で証言していた方がついに実名をだして詳細を語った。

渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言

http://www.sankei.co.jp/news/060827/sha048.htm

webではざっと触れられているだけだが、27日付け朝刊では一面で扱われ、詳細な記事も書かれている。

私があるところで「蟻の兵隊」という映画の「出来」について批判的な文章を書いたところ、下記のようなコメントがついた。

私もかなり5月に見てかなり長文の試写評をブログに書きました。このようなドキュメントに演出過剰を言っても仕方がないと思います。カメラや照明をもったオッサンたちがスグ側にたむろするのだから。。その演出を割り引いて、整序するのは見る人の責任だと思います。 見てからしばらく考えてみると、問題点が見えてきます。

山西省残留、という問題自体は政府や軍全体の問題とは見えません。澄田など一部軍人の計略、と片付けてヨイとおもいます(むろん、政府がそれをどう引き受けるか引き受けないか、という問題は残ります)。
それと、日本軍の兵士の質の悪さ(問題としてはこちらが重大、とわたしはおもいます)、それに靖国(靖国に行ったことがない私は、靖国のあの雰囲気がもっとも衝撃だった)、日本の裁判所とはいかなるものか。。という問題が渾然と盛り込まれている、とおもいました。しかしこれをどれかに絞って整然と整理すると、NHKのスペシャル番組になってしまいます。 オトナの観客により観られる映画と思います。(強調部分筆者)


ちなみに「日本兵の質の悪さとはどこをさしていっているのか」と念のため確認するが「映画の中で奥村和一氏がそういっているから」と言う答えが返ってきただけだった。奥村氏はあくまでも個人の資質としての「質の悪さ」を言及しているのであって、彼自身、戦争の問題点をそこに集約させるような発言は少なくても行っていないわけで、あえていうのならばどちらかというと問題点としては兵士の教育方法(特に捕虜などの問題)について日本は無策であったことにあるのではないだろうか。このコメント主はそのあたりをまったく考慮せずただ単純に言葉尻だけを理解して、中国等で残虐行為をしたということだけでおそらく「質が悪い」と断じているのだろう。奥村氏はある種の被害者といえるので、彼の言及については仕方ないとは思うけれども、少なくても当事者以外が歴史を考えるときそのような近視眼的視線で片付けてよいものではない。

個人的には(沖縄できいた戦争体験者の証言とあわせて考えてみるに)、島という閉鎖性、それまでの皇民化教育(またの名をグングツ化教育)などを鑑みれば、パニック状態となった島民が集団自決の道を進んでしまったことは十分に考えられることであって、そこに日本兵の強制がなくても、そうなってしまった可能性は高かっただろう、とは思う。当時島の間にはかなりのデマが広がっていたようであるし、警察や軍には(比較的)正確な情報がいっていただろうが、それらは大本営発表しかなかった一般市民には行き渡らないものであっただろうことは想像に難くない。正確な情報を得られない人間がどうなるかは、関東大震災を例に出すまでもなく、煽動されヒステリックな行動へと突き進んでしまいやすくなる。

もし日本兵の「質が悪かった」(この言い方は一個人の尊厳をまったく軽視し物体扱いしている――兵士もまた徴兵されるまでは家庭もあり日常生活もあったひとりの「人間」であることを無視しているようで用いるには抵抗あるがあえて使用する)のなら、このような事態も、また山西省残留日本兵問題も、そしてあれほどまでに餓死者が出、多くの日本兵が異国の地で無残な死を迎えることなどなかったのではないだろうか。ある意味「質がよかった」からこそ、投降もせず「蟻のように」兵士として「働き」続け、あるものは集団自決の首謀者との汚名をかぶり、あるものは戦後どのような扱いをうけるかもしらず戦い、死んでいったと私は思う。

そう考えるとこのように「質が悪かった」とあっさり断言してしまえるのをよしとする空気を形成していた戦後民主主義教育の罪悪についてやはり思い至らずにはいられない。赤松大尉の行動は真に島民のことをおもった素晴らしいものだけれども、後々を考えると(その問題の根幹はこの集団自決を日本軍による集団虐殺の証左であると喧伝したイデオロギー闘争にあるとはいえ)果たして本当によかったのか、という疑問が浮かび上がらずにはいられない。よかれとおもって軍命令書を作成した行為が、日本軍全体がそうであったとされてしまったことに、どれほど忸怩たる思いがあっただろうか。それは想像を絶する。自分だけの汚名のはずがいつのまにか日本軍兵士はみな虐殺の徒であるとされてしまったとき、赤松大尉はどのようにお考えだっただろうか。その心痛をお察しするほど、私はおろかではない。私などが思ってよいものではない。

現実の社会においていわゆる暴走族やヤンキー(2ちゃんねるでいうところのDQN)といった輩をみるにつけ(または小平義雄のような鬼畜もいたわけだし)日本兵すべてが質がよかったとはいわない。だが同様に、質が悪かったと断じてよいわけでもない。山西省残留日本兵問題における最大の「功労者」である自軍の兵を国民党軍に売り渡し、自分はまんまと日本へ遁走し戦後は国民党のロビイストとして活躍したといわれる澄田中将と、貧しい島民のため自ら虐殺者の十字架を背負った赤松大尉。対照的な日本兵だがどちらもある意味「日本軍」の光と闇というよりも、もっと大きな問題――「事件は会議室で起こっているんじゃない、現場で起こっているんだ」のような現場レベルの官僚と上級官僚との乖離に代表される官僚制の問題にまで根深く楔を打ち込んでいるように見えるのは私だけだろうか。


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「蟻の兵隊」と高砂義勇兵問題 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

高砂義勇兵の碑問題がおきたとき、そのあまりにも無残な見捨てられように、なんとか彼らを支援できないか、といろいろと調べて動いたりしたこともあったが、靖国神社崇敬奉賛会など確認した結果、結局のところ自分自身でNGOを立ち上げて支援するしかないということがわかり、歯噛みをしながらあきらめたことがあった。「蟻の兵隊」こと山西省残留日本兵問題についてはミギヒダリ問わずコミットされているようなので、なんとなくほっとしている。こういう問題は本質的にはミギが積極的に支援していくべき問題であるのに、どういう建前によるものか、(高砂義勇兵問題は特にそうだが)あまり支援されていないようであるのには愕然とする。それでも元義勇兵たちが遠くかの地で日本を思ってくれているのを考えると居たたまれなさにいてもたってもいられなくなる。

高砂義勇兵問題も山西省残留日本兵問題も、本質的な意味合いにおいて同一であると私は思う。律儀に生きた人間が取りこぼされ省みられることもなくただ朽ち果てていく。そんな状況はもうたくさんだ。

霧社事件を起こしたタイヤル族は、その後冷遇され打開するためにかなりの人間が義勇兵に志願したと聞く。その結果が現在の、この現状である。このような問題がどうしてこうもこちらの身体へ切り込んでくるのかといえば――「いま」この「われわれ」が立っているその下には彼らをはじめとする戦争犠牲者が礎となって埋もれている、それにもかかわらずこのような問題を棚上げして忘れ去ることは、とてつもない宿題を遣り残してしまっていることになり、結局いつまでも「あの戦争」の総括から逃れ続けていることになる、ということに尽きる。

国家は情緒を忖度しないもの、とはわかっているがそれにしても非情すぎるではないか。こんな現状ばかり見ていると、なんとかこの世界の情緒がうまく噛み合ってなんとかその意を忖度されていけるような状況になればよいのに、などと理想主義的夢想へ逃避したくなる。願うぐらいが関の山の己の非力さにひたすら打ち拉がられるのみ。やりきれねぇなぁ。怨嗟の呟きが積み上げられて日本は沈むかつぶれるか。不沈空母いまだ意気軒昂なれば、よいけれど。


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