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体験か想像か--「青学ひめゆり退屈問題」と「硫黄島からの手紙」 [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

「硫黄島からの手紙」を見た後、思い出したのは2005年6月頃起きた青山学院の入試問題だった。かなり旧聞となるが「ひめゆり部隊」の語り部の話す内容が退屈だという読解問題を入試にだして騒がれた、あの一件である。もうそんなの覚えちゃいねえよって感じだろうなあ。以下の記事はそのときに記したものである。

ひめゆりの語り部は無力なのか(1)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-14
青学ひめゆり「退屈」問題、総括すべきはどちらか(2)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-15


特に(2)には問題となった読解の全訳を載せているので、参考いただければ幸い。(ようは「戦争体験なんて語られるだけじゃ実感できないからダーメ。擬似体験したらホーラこんなにわかっちゃった!」ということがいいたかったのではないかと)この問題が持ち上がったとき、あちこちのblogを流し読みした限りでは「沖縄左翼マスコミ陣が騒いでいるだけのことだ」みたいな意見が趨勢を占めていたような記憶があるが違うかもしれない。私なぞはこの入試問題を(言葉の本来の意味での)確信犯で教師が作っていたのなら、ある種の敗北宣言だなと思った。なぜなら教育というのは想像力を養う側面が非常に強いわけで、イチたすイチはニであることをりんごやナスを使って「体験」させることは可能だが、三次元方程式だのになるとそんなことを試みるほうがどうかしている。ましてや徳川家康やら足利尊氏やらを「体験」することなど(当たり前だが)不可能である。だが想像力を駆使すれば「体験」することは可能であり、そのように考えていけば、思考力とは想像力ではないかと私は思っている次第。つまり、“戦争体験は語りではなく疑似体験させなければ理解できない”との主張は、“うちらは想像力を養うような教育ができていないんですよ”という暴露じゃないのか。敗北宣言だなと思ったのはそのあたりを指している。

実際のところ戦争の恐怖を追体験させることに何の意味があるのだろうか。外人部隊かなにかに入らなきゃ分からんというのはある意味事実なんだろうけれども、それは悲劇の再生産であり、あの「痛み」を他の誰かに味わわせないためにひめゆりの語り部は自らの痛みをさらけ出し、つらい思いを吐露しているのではないだろうか。実際に体験しなければ分からないという言葉ほど事実であると共にむなしさを感じさせるものはない。私がスティーブン・スピルバーグ製作の映画「プライベートライアン」をまったく評価しないのもここに由来する。Dデイの激しい戦闘場面を見ているうちに最初は驚き慄くがそのうちに飽きてくる。強い刺激に慣れすぎて同じことの繰り返しに見えてきてしまうのだ。本質的にはこちらのほうが畏怖すべきことだ。このあたりの感覚の喚起は、スピルバーグが意図していたわけじゃないのでよけいにイヤだった。

イーストウッドの描いた「あの戦争」は派手なアクションがあるわけでもなく、無残に人のカラダがはじけるシーンが多発するわけでもなく、ただ地味に彼ら一兵卒の日常と非日常が交差し、その延長線上にある死が(あるいは生が)淡々と絵が描かれるだけだ。だからこそ私は恐ろしい。「あの戦争」は別世界でおきた歴史的事実、記憶の中のイチ風景ではなく、「いまここ」の延長線上にある。沖縄で友人のご両親から戦争体験をお聞きした際も同様の恐怖を感じた。この恐怖は想像力の上に成り立っていることを私は熟知している。

「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」のニ作を通して鑑賞し、感じたのは(何度も書くけれども)クリント・イーストウッドの「意思」--ありのままの戦争を見つめ、あのときなにがあったのかなにが起きたのかを忘れないこと、それ自体が反戦なのだという主張であった。青学入試問題の件と映画製作者、両者のスタンスの違いを思うと暗澹たる気持ちになる。例の(「せんそうはもうにどとおこしてはなりません」「あのひさんなできごとをゆるしてはなりません」式の)思考停止状態がはぐくまれるのもむべなるかな。教える側が既に徹底的に受動的なのだから。(注意したいのはイデオロギーに基づいたアグレッシブさも「ありのままの戦争を見つめよう」というイーストウッドの「意思」とは反する。イデオロギーに絡めとられてしまえば「ありのまま」ではなく「見たいもの」しか見えなくなってしまうからだ。以上は映画「蟻の兵隊」に関する当方のレビューを参照ください)

イーストウッドの訴える「自ら学び取る意思」。青学ひめゆり退屈問題を思い出すとき、私は日本における反戦教育がこの決定的な欠点を保持し続ける以上、演繹的に導き出される解として再びいつの日か(朝日的意味合いではなく)軍靴の音が鳴り響くのではないかと憂えている。邦画において「反軍」映画ではなく「反戦」映画が作られる日がくるのはいつだろうか。そして積極的に「ありのままの戦争」を見つめるような反戦教育が行われる日はくるのだろうか。状況は絶望的だ。なんといっても阪神大震災で「あーまるで温泉のようです」などと当事者意識の欠如もはなはだしい御仁が、いまも沈痛な表情を作って「あのせんそうをにどとくりかえしてはなりません」とのたまっているわけだしねえ。


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toraonikki

非常に想像力の欠如、または想像力の偏りがあるであろう今日の日本の中で、体験者の“語り”は非常にわかりやすく、ストレートな方法であろうと思います。その方法をとっている方たちは、悪気ではなくこれがベストの方法と思っていることでしょう。只、すこし冷静になって他の方法もあることを、知って貰いたいですね。
by toraonikki (2007-01-12 08:29) 

よっしぃ

どう思うのも勝手だけど、まずは語って伝えることが重要なんじゃないの?
じゃあ他の方法って何ですか?
ネット?既に語り部はお年寄りだし現実的ではないですよね?
じゃあ誰かに依頼する?映画なんかもそうだけど他人に任せるとねじ曲がるよね?
どうすりゃいいのさ?
by よっしぃ (2010-02-13 17:12) 

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