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速度が問題なのだ(鈴木いづみと私) [書を捨てよ、街へ出よう(読書感想)]

「速度が問題なのだ」

この言葉は36年の生涯に自らケリをつけた作家・鈴木いづみの傑作エッセイ集「いつだってティータイム」の冒頭の言葉である。夫のフリージャズメン・阿部薫とともに、彼女は使い切るまで速度を上げ続けた。

私が学生の時、当時週刊SPAに連載中の、中森明夫氏のコーナーにて「鈴木いづみアンコール!大森望さんへの手紙」と題して彼女が紹介されていた。それが私のファーストコンタクトである。興味を持ち、早速(当時はそれしか手に入れられなかった)「ハートに火をつけて」を取り寄せた。

鈴木いづみコレクション〈1〉 長編小説 ハートに火をつけて! だれが消す

鈴木いづみコレクション〈1〉 長編小説 ハートに火をつけて! だれが消す

  • 作者: 鈴木 いづみ
  • 出版社/メーカー: 文遊社
  • 発売日: 1996/09
  • メディア: 単行本
(↑amazonに簡単な書評を書いてます。参考にどうぞ)
以来、彼女の本を校内にて持ち歩き、さながら一日の生活を共にするような日々を送った。「アナタ、鈴木いづみ、好きなの?」ある時、そんな私に声をかけてくれた一人の事務員の女性。その方は、前述の本にも登場する、ある有名な音楽評論家の奥様であった。竹下さん(仮名)は私に、鈴木いづみに関する様々な話を教えてくれたり、或いは著作をかしてくれたり、余っていたから、と阿部薫覚書までくださったり、いろいろと便宜を図ってくださった。
阿部薫覚書―1949-1978

阿部薫覚書―1949-1978

  • 作者: 阿部薫覚書編纂委員会
  • 出版社/メーカー: ランダムスケッチ
  • 発売日: 1989/01
  • メディア: -
阿部薫1949~1978

阿部薫1949~1978

  • 作者: 山下 洋輔, 中上 健次, 村上 龍, 坂本 龍一, 五木 寛之, 間 章
  • 出版社/メーカー: 文遊社
  • 発売日: 2001/01
  • メディア: 単行本
(当時阿部薫覚書は入手不可能だった。文遊社から阿部薫1949~1978として再刊されたのはずっと後のことだ。ちなみに竹下さんの夫君は「阿部薫覚書」には寄稿しているが、阿部薫1949~1978には寄稿してない。出版社の担当者といろいろとあったようだ。)
その後鈴木いづみブーム(?)が起こり、稲葉真弓のモデル小説「エンドレスワルツ」が若松孝二監督によって映画化された際、竹下さんと見に行ったりした。不失者の灰野敬二さんの話を伺ったり、また、坂本龍一氏がお正月、遊びに来たりしていた話を聞いたり。今はどうしておられるのだろうか。竹下さんからお聞きした、鈴木いづみに関する興味深い逸話をいくつか紹介したい。
**
私が仕事から帰ると、家の前の門のトコロにちょこんといづみが座っていてね。なんだか寂しそうに、いつからいたんだか、ずっと座っていたような感じで。家に入れると、ありったけの石鹸を使ってお風呂に入っちゃう。香水もものすごく使って…。大変な匂いだった。
とにかく電話がスゴイの。それも真夜中とか。延々喋っていてね。会話内容は…覚えてないな。ずーっと一人で喋っていて、アタシはうん、うん、と聞くだけ。それで「ゴメンネ、いづみ、明日仕事だから」ってまだ話しているいづみに申し訳なく思いながら、無理矢理電話を切ったの…。
阿部君は本当に小さくてね。緑の顔をして。とにかくサックスさえ吹ければそれでいいって感じだった。
ウチにも女の子がいたから、洋服あげたりして…。Aちゃんを預かったりしてたの。もしAちゃんと連絡が取れるところがわかれば、教えて欲しい。お願いね。

**

約束が果たせなかったことだけが、とても無念だ。


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ららら科學の子(失われた時間と不運にすごされた年月をおぎなう法) [書を捨てよ、街へ出よう(読書感想)]

ららら科學の子

ららら科學の子

  • 作者: 矢作 俊彦
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/09/25
  • メディア: 単行本

矢作俊彦はなぜ現在こんなにまで不遇なのだろうか。
代表作といわれているものは手に入らないし、新刊が出ることも稀だ。
このあたりは小林信彦とよくにていて、文学というのがショセン、マニアが一方的に偏愛するものに過ぎないことがよくわかる。文学オタクなんて言葉も生まれるぐらいだし。すでに基礎教養ではないのだ。つい何十年か前まで、マルエン全集に触れたことがないなんて、ある程度以上の大学生にとって非常な恥であったのに。

「ららら科學の子」はあの懐かしき60年代学園紛争のさなか、警官殺人未遂を起こし指名手配された主人公が「軽い気持ちで」中国における文化大革命をこの目で見ようと手引きされ、密航したのはいいが、農村下放に巻き込まれ、以来電気もガスもない山奥の農村で30年にわたり生活するハメにあった後、21世紀初頭の現代日本に戻ってくる。そして自分の「失われた時を求めて」カルチャーショックなどという言葉では到底間に合わない文明の衝突を経験し続ける物語である。

この本を読んでいる間、カスパー・ハウザーが出現当時所持していたお守りのセリフ-失われた時間と不運にすごされた年月をおぎなう法-について考えていた。カスパーとこの物語の主人公は同じ意味を生きる。

よく編集された映画を見るように、現代と中国奥地での非文明的な生活、30年前の熱くあつい日々が見事にカットバックされている。それはあの「意識を流れ」を表現した「失われた時を求めて」「ダロウェイ夫人」と同じ薄皮を丁寧に貼り合わせた人間の記憶、薄皮をはぐとその下からあらわれる別な記憶、記憶と記憶と記憶の連続性のなさ、そこに通底する意識の流れ。過去へ行きつ戻りつしながら、彼は自身というモノを見る。
それは私の姿であり、人々の姿であり、日本という国の姿でもある。

前作「あ・じゃ・ぱん」(東西冷戦下において日本が東日本をソ連領、西日本をアメリカ領として統治されたという設定の偽日本史)と同様に、「30年前を生きる日本人が凍結されたマンモスさながらに突如現代日本に現れ、文明の衝突に体を揺さぶられ続けながらも自分自身とは何か、答えを見いだしていく」どうしてこういう設定を考えつき、なおかつSFにならないというアクロバティックな離れ業を成し遂げられるのか、と驚嘆せざるをえない。つくづく天才を思う。

岡崎京子を読んだときも思ったけれど、同時代に天才が生き、その人の書いた本をリアルで読める、それは何事にも代え難い歓びと興奮である。

矢作俊彦という一人の天才が、あまりにも評価されなさすぎている現状に怒りよりも呆れと冷笑をかんじる。


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今日の読書【北原白秋と江口章子】 [書を捨てよ、街へ出よう(読書感想)]

文人悪食

文人悪食

  • 作者: 嵐山 光三郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2000/08
  • メディア: 文庫
ここ過ぎて―白秋と三人の妻〈上〉

ここ過ぎて―白秋と三人の妻〈上〉

  • 作者: 瀬戸内 晴美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1987/03
  • メディア: 文庫

ここ過ぎて―白秋と三人の妻〈下〉

ここ過ぎて―白秋と三人の妻〈下〉

  • 作者: 瀬戸内 晴美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1987/03
  • メディア: 文庫

ふと気になって、北原白秋の二番目の妻だった江口章子(えぐちあやこ)についていろいろと読んでいる。きっかけは「文人悪食」(嵐山光三郎著)にかかれていた「最後は糞尿にまみれて狂死した」という一節だった。(文人悪食についての感想はまた後日)
北原白秋といえば最初の妻-人妻と不倫関係に陥った白秋は、その夫から姦通罪で訴えられ、名声を得た人気詩人でありながら入獄の憂き目にあう、その人妻であった俊子が有名であるが、この人も晩年は間違えて入院させられた隔離病棟にてひっそりと亡くなっている。三番目の妻である菊子夫人は幸福なうちに大往生を遂げている。この違いはなんなのだろうか。

とりあえず作家愛欲ネタならこの人だろうと瀬戸内寂聴「ここ過ぎて」を読む。ただこの本は既にでているいくつかの本を下敷きにして書いているため、本来ならそれらも読むべきであろう。基本的に白秋とその三人の妻の話だが、江口章子についてかなりの頁が割かれている。この本を読んでわかったのは、北原白秋は肖像画などでみる穏和そうな外見とは異なり、やはり芸術家にありがちな独裁者ぶりを遺憾なく発揮していたんだな、ということ。最初の妻とはあのように大もめに揉めた挙げ句添い遂げたにもかかわらずあっさりと捨ててしまっているし。しかし半ば教祖と信徒というような状態であった二番目の妻章子については、突如章子が意味不明な行動をとり勝手に家をでていってしまったのであって、そういうことをしなければずっと白秋夫人でいられたのに。この本をいくら読んでも、なぜ章子が心変わりをしたのかイマイチわからない。全く突如として変心してしまう。おぼろげながら推測できるのは、つまり彼女はそういう人であった、ということだ。物事がうまくいきかけると、自らそれを壊さざるをえないというか。生来の破滅型、破壊型であったのだろう。
二人の妻はその気質-俊子は気性の激しさから、章子はその盲目的な従順さにより選ばれたが、同時に気質故の限界点を突破できず、もろくも“敗れ去って”いき、それぞれのまた性質なりの後半生を送っていく。矜持を保ったまま生きていく俊子はまだよいが、人に頼り切ることでしか生きていけない女であるにもかかわらずその自覚が全くない章子は、悲惨を立体化させたようなその後を送るハメになってしまう。幸せを掴みながらも、客観性のなさと脳病(早発性痴呆症と診断されているから現代で言えば統合性失調症になるのだろうか)により、自ら舞台をおりていく。生家は明治時代でありながら蒸気船を保持するような分限者だったにもかかわらず、章子が成長するにつれ、どんどんと没落していく。子供が人一倍好きなのに自身は最初の夫にうつされた性病により石女だった。夫の浮気に耐えかね上京し、白秋と出会ったその日に体を合わせた。添い遂げ白秋の貧乏時代を支え続けたものの、他の男との浮気により捨てられ、京都の名刹に嫁ぎながらも法会の最中裸で駆け回る狂態を演じ、愛想を尽かされ、脳溢血による半身不随になった上、養老院に送られ虱だらけになり、最後は化け物屋敷のように荒れ果てた実家の、土蔵の中に入れられ、空腹を訴えながら、自らの糞尿にまみれて死ぬ。その最期の友は章子との日々をうたった白秋の歌集であった、という。

で、こう書くとなにやらかわいそうな人と同情心が湧きそうになるが、確かに別な意味でかわいそうだなと思うけれど、基本的に自分自身で悲惨な状況を作り出しているところがあるので、あまり同情しにくかったりする。むしろ周りの男たちが「よく耐えているな」と同情したくなる。とくに、彼女のために大徳寺の管長の地位を棒に振った感もある三番目の夫については離縁した後も(法的な根拠はないにもかかわらず)彼女へ金銭的援助などを行い続け、それは彼が再婚した後も続いたほどだ。せびられたらそれだけ与える。新しい妻が異を唱えるまで割とマメに続いた。正直、法主がそれほどまでにするような魅力ある女性には思えなかった。つまらん感想だけれども、自分勝手に生きるとそれ相応の人生だよ、ということだと思った。それと美貌って人生という尺度で考えるとあんまり役に立たないかも、ということも。


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「失われた時を求めるダロウェイ夫人」 [書を捨てよ、街へ出よう(読書感想)]

「20世紀最高の文学の一つと言われる偉大な小説」
この小説にはカナラズこの様な枕詞が使われる。だがそういう注釈はびびりを生むだけだ。そういう解説は単行本の裏にでもまかせたい。


年若い時期にはわからないことがある。それは30代になっても、50代から見ればまだ「ケツの青いガキ」だし、その50代だって70代からみれば若造だ。私たちが年若いモノに「若い癖に」とか「イマドキのヤツは」と言うとき、悔恨といささかの嫉妬が混じることは否めない。これは「アナタ」におくる「私」の言葉である。


「ダロウェイ夫人」は西班牙風邪にやられ、急速に老いを感じる。若いときから案外気持ちだけは変わらず、なんらかのきっかけにより、唐突におのれの年齢をしることはよくあることだ。例えばしばらく会ってなかった知人の子の成長をみたとき、例えば怪我がなかなか治りにくい事実に気づいたとき、例えばもう子供に勉強を教えられないとわかった時。
「昔の自分のように」美しくなった子供、その子供を見て、過去の自分の思い出がわき上がることはないだろうか。あるいは過去に起きた印象的な出来事と同じような風景を目にしたとき、その出来事が起きた心情が「今、さっき」経験した様な現実感で表出する-まるで冷凍された肉が瞬時に解凍され、血の滴る断面を空気にさらしたかの如く。

生物学上の規定を無視するならば、私たちの身体はディオキシリボ核酸や水分やタンパク質、C、O、H、で構成されているのではなく、記憶を積み重ねることで成り立っている。私たちは「記憶」をよりどころに、薄皮を貼り合わせようにして出来ている。
アイデンティティ-自己同一性とは、「アナタ」や「私」にまとわりつく思い出なのだ。
私たちは一日の間に、どれだけ過去へさかのぼるのだろうか。マドレーヌを食わずとも、謡いのように口の端へのぼる。追憶には、どこであろうと容赦なく襲われるものだ。
ダロウェイ夫人の登場人物たちは、街角で、公園で、家の中で、花屋の店先で過去に、繰り返し囚われる。そのたびに打ちのめされ、過去を憎み、どうにもならない現実と、かつては世界を変えられると主体が「時」に勝利していた「以前の日々」を思う。

この物語は、ダロウェイ夫人がパーティを開くことを決めた朝から、パーティが終わりかける夜までの出来事である。


ダロウェイ夫人は弱った身体をもてあまし、老いを間近にしながら緩慢な死よりはむしろ肉体を支配するのは「時」ではなく、この「私」であることを明確にするため、自身の主体を確実にする行為として自死に強く惹きつけられる。常に自らの立脚地に対して自覚的であるダロウェイ夫人は、セプティマスという「先の大戦」(第一次世界大戦)で傷つき、精神を病んだ青年が自らを喪失させる-主体を別な誰かにゆだねる-ための療養所行きを拒否するために身を投げたことを知り、強烈なシンパシィを覚える。
彼女はパーティのさなか、部屋に閉じこもり、死を思う。

しかしそのとき窓の外には。

窓の向こうでは、隣家の光景が-おばあさんが一人、一日の終わり支度をし、眠りにつく様子が見えた。
ダロウェイ夫人は思う。たとえ「時」に支配され、主体をゆだねようとも、自分の意のままにならずとも、あのように平凡で心穏やかな日々が待ち受けるなら、それでもよいのではないか。ダロウェイ夫人は「時」と和解する。「人生」を受け入れる。やがてパーティに戻る。
ダロウェイ夫人は再生され、自らの生をまっとうすることが、できた。その背中は凛として、痛ましいほどの潔さに満ちている。自身の生に懐疑的であることを義務づけられた近代人としての性(サガ)を甘受しつつ、それを自覚的に全うしようとする。

私は私の人生を思う。私は私のまわりで死んでいった幾多の人生を思う。心臓を鷲掴みにされるように過去を思う、半歩先にたたずむ未来を思い、ソレを受け入れようと思う。ダロウェイ夫人を読んだ後は必ず。
そしてこうも思うのだ。“過去は常に新しく、未来はいつも懐かしい”

ダロウェイ夫人

ダロウェイ夫人

  • 作者: ヴァージニア ウルフ
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1998/07
  • メディア: 単行本


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ららら科學の子(失われた時間と不運にすごされた年月をおぎなう法) [書を捨てよ、街へ出よう(読書感想)]

矢作俊彦はなぜ現在こんなにまで不遇なのだろうか。
代表作といわれているものは手に入らないし、
新刊が出ることも稀だ。
このあたりは小林信彦とよくにていて、文学というのがショセン、
マニアが一方的に偏愛するものに過ぎないことがよくわかる。
文学オタクなんて言葉も生まれるぐらいだし。
すでに基礎教養ではないのだ。つい何十年か前まで、
マルエン全集に触れたことがないなんて、
ある程度以上の大学生にとって非常な恥であったのに。

「ららら科學の子」はその学園紛争のさなか、警官殺人未遂を起こし
指名手配された主人公が「軽い気持ちで」中国における文化大革命をこの目で見ようと
手引きされ、密航したのはいいが、農村下放に巻き込まれ、
以来電気もガスもない山奥の農村で30年にわたり生活するハメにあった後、
21世紀初頭の現代日本に戻ってくる。そして自分の「失われた時を求めて」
カルチャーショックなどという言葉では到底間に合わない
文明の衝突を経験し続ける物語である。

この本を読んでいる間、カスパー・ハウザーが出現当時所持していたお守りのセリフ
-失われた時間と不運にすごされた年月をおぎなう法-について考えていた。

カスパーとこの物語の主人公は同じ意味を生きる。

よく編集された映画を見るように、現代と中国奥地での非文明的な生活、
30年前の熱くあつい日々が見事にカットバックされている。
それはあの「意識を流れ」を表現した「失われた時を求めて」「ダロウェイ夫人」と同じ
薄皮を丁寧に貼り合わせた人間の記憶、薄皮をはぐとその下からあらわれる別な記憶、
記憶と記憶と記憶の連続性のなさ、そこに通底する意識の流れ。
過去へ行きつ戻りつしながら、彼は自身というモノを見る。
それは私の姿であり、人々の姿であり、日本という国の姿でもある。

前作「あ・じゃ・ぱん」(東西冷戦下において日本が東日本をソ連領、
西日本をアメリカ領として統治されたという設定の偽日本史)と同様に、

「30年前を生きる日本人が凍結されたマンモスさながらに
突如現代日本に現れ、文明の衝突に体を揺さぶられ続けながらも
自分自身とは何か、答えを見いだしていく」

どうしてこういう設定を考えつき、なおかつSFにならないという
アクロバティックな離れ業を成し遂げられるのか、と驚嘆せざるをえない。
つくづく天才を思う。

岡崎京子を読んだときも思ったけれど、
同時代に天才が生き、その人の書いた本をリアルで読める、
それは何事にも代え難い歓びと興奮である。

矢作俊彦という一人の天才が、あまりにも評価されなさすぎている現状に
怒りよりも呆れと冷笑をかんじる。


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