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ららら科學の子(失われた時間と不運にすごされた年月をおぎなう法) [書を捨てよ、街へ出よう(読書感想)]

矢作俊彦はなぜ現在こんなにまで不遇なのだろうか。
代表作といわれているものは手に入らないし、
新刊が出ることも稀だ。
このあたりは小林信彦とよくにていて、文学というのがショセン、
マニアが一方的に偏愛するものに過ぎないことがよくわかる。
文学オタクなんて言葉も生まれるぐらいだし。
すでに基礎教養ではないのだ。つい何十年か前まで、
マルエン全集に触れたことがないなんて、
ある程度以上の大学生にとって非常な恥であったのに。

「ららら科學の子」はその学園紛争のさなか、警官殺人未遂を起こし
指名手配された主人公が「軽い気持ちで」中国における文化大革命をこの目で見ようと
手引きされ、密航したのはいいが、農村下放に巻き込まれ、
以来電気もガスもない山奥の農村で30年にわたり生活するハメにあった後、
21世紀初頭の現代日本に戻ってくる。そして自分の「失われた時を求めて」
カルチャーショックなどという言葉では到底間に合わない
文明の衝突を経験し続ける物語である。

この本を読んでいる間、カスパー・ハウザーが出現当時所持していたお守りのセリフ
-失われた時間と不運にすごされた年月をおぎなう法-について考えていた。

カスパーとこの物語の主人公は同じ意味を生きる。

よく編集された映画を見るように、現代と中国奥地での非文明的な生活、
30年前の熱くあつい日々が見事にカットバックされている。
それはあの「意識を流れ」を表現した「失われた時を求めて」「ダロウェイ夫人」と同じ
薄皮を丁寧に貼り合わせた人間の記憶、薄皮をはぐとその下からあらわれる別な記憶、
記憶と記憶と記憶の連続性のなさ、そこに通底する意識の流れ。
過去へ行きつ戻りつしながら、彼は自身というモノを見る。
それは私の姿であり、人々の姿であり、日本という国の姿でもある。

前作「あ・じゃ・ぱん」(東西冷戦下において日本が東日本をソ連領、
西日本をアメリカ領として統治されたという設定の偽日本史)と同様に、

「30年前を生きる日本人が凍結されたマンモスさながらに
突如現代日本に現れ、文明の衝突に体を揺さぶられ続けながらも
自分自身とは何か、答えを見いだしていく」

どうしてこういう設定を考えつき、なおかつSFにならないという
アクロバティックな離れ業を成し遂げられるのか、と驚嘆せざるをえない。
つくづく天才を思う。

岡崎京子を読んだときも思ったけれど、
同時代に天才が生き、その人の書いた本をリアルで読める、
それは何事にも代え難い歓びと興奮である。

矢作俊彦という一人の天才が、あまりにも評価されなさすぎている現状に
怒りよりも呆れと冷笑をかんじる。


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