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長距離走者の至福 [ごきげんいかがワン・ツゥ・スリー(日記)]

玄関を開けて外へでると、湿った夜の空気。肺に満ちる。懐かしいにおい。すぐに走ることはしない。まずは10分程度ウォーキングをしてからだ。日付が変わる時間になっても、この通りから人が消えることはない。近くのマンションで、男女がなにかを話し込んでいる。離れた足と寄せ合う顔という組み合わせが印象的だ。どういう内容なのか、表情も読み取れないほどの暗がりならば考えてもしょうがないことだ。

中学時代、校内マラソン大会があったからか、授業の一環として長距離走があった。あの頃は好きではなかった。むやみに追い立てられているような、秋ぐちの冷えた空気の中、毛穴から汗を染み出すようにして走っていた友達の姿を思い出す。乾く汗のいやなにおいも。なんのためにこんなことをしなきゃならないのかと苦痛でしかなかった。

ぐちゃっとしたスーツの男性がふらついてこちらにきそうになったがふいにシャンとなった。その横を通るとiPod nanoが時間の経過を知らせてくれた。便利になったものだ。

姿勢を整えて、一呼吸し、走り始める。最初からとばしてはいけない。じわじわとペースをあげていく。

おそらく多くの人がそうであるように、私も長距離イコール苦痛であるという意識ではなくみるようになったのは、アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」を読んでからだ。知らない?そりゃ残念。あと三周トラック回ってきてね。
主人公は競技大会のために走らされている。彼自身が望んだことではなく、彼のいる感化院の院長の名誉心のためだ。走りながら彼はさまざまなことを考え、また去来し、走っている自分自身の孤独とその実存感について安寧を見出す。その姿に私はどうしようもなく憧れた。

ラーメン屋の前にはどんぶりを持った人たちが思い思いの姿勢で食している。店内が狭いので外で食べるしかないのだ。脇を通ると、いやな顔をされる。

走るのは、何も考えない瞬間を迎えたいからだ。走る前や走り始めて筋肉がきしみリズムが身体になじむ前は考えないことなんてほとんど不可能だ。膝に違和感がないか、フォームはどうか、それだけではなく、今日一日の出来事、特に失敗したことやその行為がひとにどううつりそしてどう解釈されるか、などということが繰り返し浮かんできて、だが流れ込む音楽に集中し、足はリズムをとりながら交互に動き、肩を下げ、肩甲骨をよせる。肘は真後ろにひかれ、毛細血管が開き、汗が流れ出す。

理想の「走る姿」はなんといっても「肉弾時代」にでてくるパンチドランカーの元ボクサー武居だ。彼はどこにいてもおかまいなしに、習慣として、唯一身についた記憶として、朝になるとランニングをする。無心に走る姿はただただ美しい。あのような忘我のときが、私にも訪れるだろうか。

それでもやがて刻む足とシンクロする肘に意識することがなくなり、システマチックな流れに身をゆだねることができれば、それはあと少しでくる。吐く息と吸い込む意志、そしてそのままで1キロ以上こなしていたことに気づく。なにもかも洗い流す瞬間。20分経過、とアナウンス。音楽を血が沸騰しそうなものに変えてもうちょっと。いつまででも走れるような気は、もうずいぶん前から感じている。太ももの筋肉がはりつめ、背中が充実し、私を前に押し出していく。まさに至福の時間だ。まだまだ。いけるところまで。

総てを出し切る前に、ウォーキングに切り替える。呼吸を整え、いつもの私に戻る準備をする。はしるたびに、わたしは厚く着込んだ服を脱ぎ捨て、新しい私として家に帰る。帰り際、あの男女はまだ話をしていた。あなたも走ってみれば、いいのにね。


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