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「さすらい」 [映画レビュー※ネタバレ注意]

さすらい

さすらい

  • 出版社/メーカー: アイ・ヴィー・シー
  • 発売日: 2004/04/25
  • メディア: DVD

ミケランジェロ・アントニオーニ「愛の不毛4部作」のうちの第一作。1957年につくられたこの作品は、前夫人が「あなたをもう愛してない」と一言残して出ていったことに対するアントニオーニの回答だそうだ。物語は、その心情を反映するかのように、陰鬱に展開し、救いがない。

7年内縁関係にあったイルマに、ある日突然、彼女の夫の死をきっかけに「ほかに好きな男ができたから別れてくれ」といわれたアルド。彼は喪失を抱え、娘を連れて村から村へ放浪する。旅先で幾人かの女と出会い、肌をすり合わせることになっても、イルマへの追慕を断ち切ることはできない。村に戻った彼はイルマが別れた後に生まれた赤ん坊をあやしている姿を見、絶望し、元の職場である製糖工場の鉄塔に登り、イルマの目前で落ちる。

イルマから追い立てられた彼は、元の恋人の家へ向かう。安堵しながらも、その妹に誘惑されたことでイルマへの感情をかき立てられてしまう。そしてそこを後にし、また流れていく。このあたりの感覚が、身につまされるというか、私も同じようなことをしたことがあったので、他人事ではない。そのとき、その男は「戻ってこれるものなのか?おれは新しい子と新しい人生を始めたいんだ」と泣いた。後で聞けば、彼は新しい人を作ることも無く過ごしたようだった。ナット・キング・コールの「ルッキングバック」ではないが、振り返れば見えてきたものがあったとしても、そこにはもう戻れない。イタリアの寒村の様子を背景に、旅は続く。
続いてアルドが流れついたのは、父娘二人で経営しているガソリンスタンドで、なんとなく働き始める。女は生活力あふれるたくましい娘で、アル中の父親に苦悩しつつも、それなりに快活に過ごしている。アルドの娘は女の父を祖父のように慕い、疑似家族のようなものが形成されつつあるが、女は母であるよりも主体的な女であることを選択し、父親を施設に入れ、幼い娘を故郷に帰し、放逐してしまう。そうなってくるとアルドの胸に去来するのはイルマが「女」でありつつも「母」であったことで、必然的に彼はそこを去っていく。
最後に出会ったのはまだ若い娼婦。身体を壊し、流産経験のある彼女は、アルドとの落ち着いた生活を望むが、生活苦から元の道へ戻ってしまう。アルドは絶望し、故郷へと足を向ける。

ストーリーは煽ることも無く、出来事が淡々と羅列されていくだけで、説明も無く、映し出されるのはイタリアの寒村の風景と、男の絶望だけだ。娘は黙々と父親の放浪に従事し、学校で遊ぶ同年代の子供たちを見たときにも、泣くことしかできない。父親はそれどころではなく、内心の空虚さ、喪失感を持て余し、ただ自己と対峙し続ける。まさに不毛としか言い様のない光景である。冒頭、イルマは工場で働くアルドに声をかけるが、それは結末でも繰り返され、物語は円環となって終了する。

ネオレアリズムの影響か、もしくは自身の社会主義的な感覚からか、今日的視点からすると奇妙に思える箇所も有る。たとえば、ガソリンスタンドで働いているとき、アル中のおやじはアルドの娘に唄を教えるのだがそれが「ブルジョアを殺せ」という酷く物騒な内容だし、クライマックスは空港建設をめぐる争議の真っ最中であるなど。そのあたり、イデオロギー喧伝とも思ったりもするが、特に作品としての質を落としているほどではない。

アルドはなにを求めてさまよっていたのか。イルマとの決別ではないと思う。おそらくは自分自身に対しての決別で、赤ん坊云々はあくまでも「欲しかったきっかけ」に過ぎないのだろう。アントニオーニの身代わりとして死んだアルドは、だからこそ永遠の命を得たと私は思う。


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