皮膚感覚が共有できない [たまには真面目に語ってみる(コラム)]
あるテクストを前に議論していて、いわゆる「歴史的事象」を提示した際、一般的ではないといわれたとする。一般的かどうかの指針としてたとえば「教科書に載っていた」とかえしたが、言われた方は「教科書に載っていたとしても自分としては皮膚感覚が共有できないから云々」という。では一般的という指針はなんなんだろう。
ある歴史的事象を考えるとき、一般的かどうかについては、教科書に載っているかどうかがかなり重要な尺度であるような気がする。(それゆえの功罪はひとまずおいておく。ここでは知名度に限定して話を進める)だがこれもいろいろと変わる可能性があるので難しい。(世界地理を学んだとき超大国としてそびえていた国はすでにない)だが知名度あるいはその歴史的事象を全国で共有する意識についていえば、執筆者は違えどもまがりなりにも一応文科省の検定をうけているわけだから、かなり高いのではないだろうか。いやもしかすると地方地方によってオリジナリティあふれる教科書(徳川将軍よりも藩主の歴史が延々とかかれているような)があるのかもしれない。それなら皮膚感覚が共有できなくても仕方あるまい。東京も一地方に過ぎないし。
何かね
今の世界史だと
カイザーがカエサルとかってなっているらしいけど
なんとな~く通じるものがあるよ。
でも
愛知県でずっと暮らしている私と
広島の呉で育った夫では
広島観が全然違う気がする。
そんな感じかな?( ̄~ ̄ )ウーン...
by (2006-03-01 14:30)
同じ長野の人でも、長野市の人と松本の人では東京イメージが違うそうです。上野に着くか、新宿に着くか、初体験の相手で、そう変わるのかなと思ったりしますが。
それで、歴史的事象も自分との関わりで、それも大げさなもんじゃなくて、単に見たドラマの素材とか「入り口」との関係の方が、教科書よりも「皮膚感覚」に影響するのかという気がします。
例えば、沖縄で首里城よりも舞踊が気に入った私には「琉球王朝」の歴史を、教科書的な記述ではなく、宮廷舞踊や雑踊りの成立背景として理解しているという感じです。
だから「歴史的事象」の構造を理解するにも、事象そのものよりも、その原因や結果と、自身の体験との関連があった方が「皮膚感覚」になるのかという気がします。
by 南郷力丸 (2006-03-02 04:56)