海ゆかば [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
いよいよ参拝へ [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
取材される側 [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
取材する側 [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
国民集会 [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
早速 [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
早速 [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
ステキ絵馬とみたままつり [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
東京は靖国神社恒例のみたままつりにいってきました。
今回も以前と同じテイストの見世物小屋がでてましたが、昭和アングラの劣化コピーのような出し物だったので今年は振り返らずにサヨナラいたしました。でもってちょうちんに注目したりして。
間違いはどれだ?
絵馬もステキ。
「さようなら元気でね」の文字が謎ですが、とりあえず彼の闘うべき敵が脳内でないことを祈ります。
絵馬にはものすごく大雑把にいって願望系と独白系に分かれると思うのですが、読み物としてグッとくる絵馬はやはり独白系に集中します。今回はそんなイカシタ発露、うっかり漏れでた先走り汁とでもいえる独白系をいくつか紹介いたします。こちらはまさに独白系の王道ですな。こうした宣言を聞かされても、神は素直にうなづくのみ。
のりこさん、フォーエバーラブ誓われてますよ。よかったですね。それはさておき、いまどきハワイに行きたいといわれてもなあ。高度経済成長期円は360円の時代は遠き追憶へ。HISの安いツアーで行ってください。レイかけられて踊るのだけは勘弁な!
独白系の進化形態の中には当然ちょっとアレなものも含まれてくる。「絶対個人」なるものがなにかよくわからないけれども、電車なんかで自己啓発本を読みふけってそうだな。勢いあまると日の丸まとって演説しそうだけれども、まだそこまでにはゆとりがある。そんな一歩手前感がたまりません。
上の絵馬がかろうじてある一線に踏みとどまっていた気配があるにもかからわず、そんなリミッターはどこへやら、唖然とするわれわれを遠く置き去りにしているのはこちらの絵馬。「~ように」と願望っぽく「お願い叶えてカミサマ!」と全盛期のGSのごとく熱視線斜め45度キープだったのが、最後の最後でうっかり本音がでてしまった。人はそれをかわいらしさとは呼ばず、デムパと呼ぶやら呼ばぬやら。
雨が降ったり降らなかったりと、あまりよい天気ではなかったがそれでもこんな風に
over the rainbow.
おあとがよろしいようで。
さとうただおスペシャル [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
みたままつりにて。上から下までびっしり佐藤忠男。
評論家中条省平氏トークショー「ヌーヴェル・ヴァーグについて知っている二、三の事柄」(仮題) [今そこにあるモノを見にいく(ルポ)]
昨日行われたシネマヴェーラ渋谷で開催中のヌーヴェル・ヴァーグ映画週間記念のトークショーに参加してきた。話者は映画評論家中条省平氏。(ちなみにこの日記のトークショータイトルは私が適当につけたもの)
17;25から開始なんてアータ早すぎるぜと文句たれつつ17時頃渋谷に到着。人が多くてなかなか思うように前に進めず。クソ不味いホットチョック(ピッコロサイズ)を飲みながらなんとか間に合う。会場は入れ換え制ではないゆえか、ほぼ満員。今日は雨で天気が悪い上かなり寒かったのにもかかわらず皆よく集まるなと自分もその一人ながら感心した。さてトークショー。この日の内容は「俺とヌーベルバーグ」。ドゥルースのシネマ2をテクストにしながらヌーベルバーグを語るといった趣。かなり面白かった。
「みなさんこんばんは。中条です」とスクリーンの前のイスに一人腰掛け開始。以下はだいたいの要約となります。
「今回はヌーヴェル・ヴァーグについて語るということで」と1959年という年がヌーヴェル・ヴァーグにとってどのような意味合いであったかについて言及。「クロード・シャブロルは『美しきセルジュ』を発表し、そしてすぐ『いとこ同士』をも送り出し一躍スターとなり、トリュフォー、アラン・レネがカンヌで賞をとるなど活躍、一気に広がりを見せ、またこの年に『勝手にしやがれ』がクランクイン、ロメールの『獅子座』も同様。ただしロメールは既に王手飛車取りでデビューはしていましたけれども。ヌーヴェル・ヴァーグの年がそこからとすると、今年で47歳、もうすぐ50歳というのはそこからきてます。」
「ヌーヴェル・ヴァーグとは何かというと、『勝手にしやがれ』を例にとりますと、まず第一にオールロケというのが挙げられます。これはカメラが軽量化され手持ちできるようになったこと、フィルムの感度がよくなってスタジオでものすごい光量をあてて撮影しなくてもよくなった。ここにおいて完全にスタジオの閉鎖された空間から解放されたわけです。ロケーション撮影ですね。そしてこれはゴダールだけかも知れないですけれども、即興演出を取り入れた、という点。」ここで中条氏は『勝手にしやがれ』における自由さをジーン・セバーグがフランス語をそんなに話せないにもかかわらず起用したことによって生じる偶然性ーーそれは最後の場面においてベルモンドがつぶやく「俺は最低だ」という言葉、その「最低」という単語がわからなかったため、近くにいた警官に尋ねると「おまえは最低だといっているよ」といわれる。ここにおいて生じる暗いユーモアなどを例に挙げつつ「ヌーヴェル・ヴァーグの大きな特徴としては、ドキュメンタリー性が強いということです。パリの街角でロケを行い即興演出を行うことによって土地のドキュメンタリー性のよさをひきだした、ということがいえます。ただ『勝手にしやがれ』において唯一古いと思うのは、同時録音をしていないということです。その後の映画の流れとはそこが違っているんですけど、とにかく綺麗な言葉、綺麗なフランス語を話して演劇的に聞かせるというのをやめた、ということがいえます。」
続いて中条氏はドゥルーズの「シネマ2 時間イメージ」をテクストにしながらヌーヴェル・ヴァーグの特徴について解体していく。
「ドゥルーズの『シネマ2』がようやく翻訳されましてーーなぜか『シネマ1』ではなく『シネマ2』から刊行されているんですがーーこれは難しいですけれども、かなりよいので是非読んでみてください。『シネマ1 行動イメージ』では古典映画つまりハリウッド映画について語られていて、シネマ2では`時間イメージ`について言及している。この中でドゥルーズは`時間イメージ`とは何か、ロッセリーニに代表されるネオレアリスモを例にとって説明しています」
「ヌーヴェル・ヴァーグとネオレアリスモの特徴としてドゥルーズは分散的であること、人間関係が脆弱であること(今日の関係が明日も続くとは限らない)、主人公のさすらい(本人以外行動形式の意味合いがとれない、観客には説明されない)、世界が陰謀的であること、登場人物たちが自分たちの行動について自覚的であること(自分の行動に対して批判的であったり戯画的であることへの自覚)を指摘しています。(筆者注:ここで『勝手にしやがれ』やその他ヌーヴェル・ヴァーグ作品を例にとって上記5点の説明をした後)これは第二次大戦を経て、世界の解釈の仕方が変わってしまったということが言えると思います。古典映画のように、主人公が自らの行動形式になんの疑問も抱いていないというような世界にはもう戻れなくなってしまった。見取り図が成立しない見取り図というか、これは先ほどいった第二次大戦後の世界の変化と関係してきているわけです。」
「ヌーヴェル・ヴァーグは僕にとってなにかというと、これは世界の再発見にほかならない。映画を根源的に条件付けしてみてください。そうすると上映時間とフレームの二種類が決定的な構成要素となると思います。このフレームですが、ドゥルーズがいうにはヒッチコック型とルノワール型がある。ヒッチコック型というのは先ほど言ったいわゆるハリウッド的な古典映画で、ヒッチコックの映画をみればよくわかると思いますが、すべての要素がぎっちりと詰め込まれており、フレームの中に世界を作っている。まるで教科書のような作品のことです。ルノワール型というのは世界を切り取ってきている、世界は無限大だから俺に切り取れるのはこれだけだよ、ということなんですけれども。それでヌーヴェル・ヴァーグの監督たちはみなルノワールが好きなんですね。ヌーヴェル・ヴァーグは本質的にルノワール的なんです。シャブロルなんて映画をみると実にヒッチコック型だけれども、やはりルノワールが大好きなんですね。そしてブレッソンを馬鹿にしている。彼が言うには、ドアノブに手をかけてあけるところを映したりあるいは登場人物が街頭を歩くコツコツコツという靴音をわざわざ撮ることになんの意味があるんだ、と。また『犬』における犯人が自白するシーンで、カメラがパンしてから告白が始まる。あんなのありえないっていうんですね。そういうことに意味を見いださないのがルノワール的であり、否定するところから始まったのがヌーヴェル・ヴァーグなんです。」
そして齢70を超えるヌーヴェル・ヴァーグの監督たちがいまだに現役でなおかつ若々しい感性を保持していることを驚異的であると褒め称えながらルノワールの映画の一節へと。
「ルノワールの『ゲームの規則』における有名な言葉`僕が本当に恐ろしいのはすべての人の言い分が正しいことだ`に象徴されてますが、ルノワールには世界に対する恐れがある。彼の「ピクニック」には世界でもっとも美しい雨のシーンが登場します。が、もともと彼が欲しかったのはカンカン照りだったんですね。でも雨が降ってきてやみそうもなく、しかもそれがあまりにもすごいのでじゃあ撮ってしまえということで、つまり偶然収めたものが世界で一番美しい雨のシーンになったんですね。これがクロサワなら近くの宿を何ヶ月もおさえて、金がねえなんて嘆くスタッフを`がんばるんだ`とか励ましながら思い通りのシーンを撮る。だいたいどうせ開けもしない薬棚をきちんと開けられるようにした上さらに中にそろえておくといったことになんの意味もないんですよ!」ここで場内から軽い失笑が漏れた。「ここにクロサワファンの方がいたら申し訳ないんですが、あくまでもルノワール的な世界観と比べてということですので」と中条氏も苦笑いする。
「戻りますと、カフカのあの謎めいた言葉`世界とおまえの戦いなら世界の方を支援しろ`にもつながっているのですが、つまりすべての人が正しい、どの人にも言い分があるということを認めあう、そういうことをルノワールは実体化させた。そしてヌーヴェル・ヴァーグは知りあった5人全員が親友でーー後にはゴダールとトリュフォーのように血で血で洗うような憎しみの中別れていったケースも有りますけれどもーーそしてそういう世界の多様性を認めようと5人全員が共有していたわけです。」
中条氏はこの日上映されるゴダール「恋人たちの時間」における、世界に対する断片化とその人間関係の脆弱さゆえの残酷性、また「モンソーのパン屋の女の子/シュザンヌの生き方」を`くだらないことこの上ない話`であるとしながらも、個別の人間の物語ながら、結果すべての人に言い分が有るということを表現しており、また女の子が涙するシーンで窓の外に降り注ぐ圧倒的な雨において宣告される`世界は豊かだ`という象徴に注目して欲しいと語られた。
「リュミエール兄弟の映画に『赤ちゃんの食事』というのがあります。これは赤ちゃんがただ食事をしているシーンをとった元祖ホームムービーというべきものなんですけれども、その赤ちゃんが食事している後ろでうつる木が、今そこにあるように風にそよいでいる、もうその赤ちゃんだって死んじゃっているだろうし、木もないかもしれない。でも映画の中では永遠である。そこに世界の多様性が表されているんですね。」
続いてロメールの「獅子座」を絶対に見ろと推薦。「男の目に映る世界の変容を是非見て欲しい。疲れ切ってパリを放浪するんですが、そこで川の水面にうつる波紋がまさに世界を再発見させるものなんです。だから僕にとってヌーヴェル・ヴァーグとは世界をもう一回再発見させてくれた、友情に満ちた奇跡的な映画運動です。(こんなことは年をとった人間が言うと実に醜いのですが、と前置きした上で)特にこの時期のヌーヴェル・ヴァーグは`若さ`でしか補足しようがない作品なので、是非皆さんもこの時期のヌーヴェル・ヴァーグをみて世界を再発見して欲しい」と中条氏は締めくくった。
話としては氏の「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)とも重なる部分が多く、基本的には補足するような内容だった。情報量に圧倒されるとまではいわないが、なにぶんにも早くもあったので、前の方の席では何人か寝ている方もおられた。もったいない。ドゥルーズについてはあまりよく知らないので非常に参考になった。帰宅後早速Amazonにて購入したりして。聞き逃した方は是非「フランス映画史の誘惑」を読んで補完した上でヌーヴェル・ヴァーグの作品に触れて世界を再発見してほしい。有意義な時間でございました。