浅川マキのロング・グッドバイを「読む」 [音楽レビュー]
寺山修司が彼女のために書き下ろした作品、ロング・グッド・バイ。寺山の作品で同名のものがあるが、それとはまったくの別作品。衝撃は比ではない。
いわくつきの作品で、さまざまな事情(詩を読めばその“事情”は容易に察せられるが)と浅川マキ本人の希望により、おそらくもう出版されることはない、といわれている。だが過去に一度だけ掲載されたことがある。その雑誌--古本屋サイトで探してみつけた「新譜ジャーナル別冊 浅川マキの世界」でようやく読むことができた。一読して、まず絶対に絶対に録音されて公に発売されることはないだろう、とおもう。朝鮮人のおじさんがガス自殺をした、それだけの話なのだけれども、wikipediaによれば寺山は渋る浅川マキに対して「マキがこの作品を唄わないならば、僕(寺山)が演出する意味が無くなる」とまでいい説得したそうだ。なるほど寺山がそこまで固執したのもよくわかる。確かにこの曲は浅川マキにしか歌えない。日本でもっとも優れたブルーズ歌手であり、怨念を抽出し普遍的な情念へと白く昇華できる彼女でなければならなかったと思う。それにしてもよくこんな詩を書けたものだ。これも1972年という時代だからこそできたものだろう。それにしても、二律背反するようだが、このまま世に出ずうずもれていくには惜しい。寺山に神が降りたような、奇跡的な詩である。途中にはさみこまれる鉄道唱歌がまさに哀歌だ。線路は続くよ、どこまでも。「はるかな町まで しあわせと たたかいのない日を 探すため」
今日はいささかセンチメンタルで、でも泣けば泣くだけどこか洗われたような気になり、夜の中におちる。また、明日。
久しぶりにCream [音楽レビュー]
中学のとき生まれて初めて聞いた洋楽がストーンズ。以来60~70年代のロックンロールばかり聴いていた時期がある。洋楽ばかりというわけでもなく、グループサウンズやらもおさえていたから雑食もいいところ。引越しのとき、そういったアルバムの大部分をなくしてしまい、以後なんとなく聞かなくなってしまった。
そんなゴタゴタを生き抜いた数少ないアルバムの中に「クリームの素晴らしき世界」があるのだが、先日、ふと思い立って取り出してみたところ、なぜか、二枚組のうちもっとも聞きたかった曲をおさめたCDがビーチボーイズにすりかわっていたという摩訶不思議な現象に見舞われていたので、デジタルリマスター版を買ってみる。お目当てはもちろんジンジャー・ベイカー、マイハニー。
以前、クリームで誰が一番好きかと尋ねられ、ジンジャー・ベイカーと即答して笑われたことがあるが、どうも私のような音楽センスのかけらもない人間にはクラプトンの偉大さがイマイチ理解できない。ジンジャー・ベイカーは高校のときこの「クリームの素晴らしき世界」の「Toad」で心臓を射抜かれてからずっと好きだ。だから「素晴らしき世界」でも聞きたいのは実はこの「Toad」だけだったりする。(ホワイトルームもいい曲だとは思うんですがね)
ジンジャー・ベイカーのドラムソロを本当に何年かぶりに聞いたのだが、やはり血が沸騰するというか、原初的な快感を引きずり出される感じがしてたまらない。先月の横浜ジャズフェスティバルで森山威男を聞いたときも思ったけど、やっぱりドラムですよドラム。自分がおそらく最もできないであろう楽器なだけに(反射神経が恐ろしく悪いもので)全身の毛を逆立てられるほどの演奏に巡り合うと、それだけで至高の快楽を味わえる。だからiPodで聞くときはなるべく爆音にして耳の中をかき回すようにしている。
そうこうしているうちに、きちんと森山威男を聞いてみたくなり「キアズマ」を購入。どんな爆裂具合か家に帰るのが楽しみである。ワクテカ。
晩秋にはマリアンヌ・フェイスフルを [音楽レビュー]
ロックンロールバビロンによれば、天使のような娼婦、というイメージだった彼女も、この間「パリジュテーム」というオムニバス映画の予告編にちらっと登場したのをみたらかなり太ってしまっていた。おおーあのマリアンヌもなあ…と感慨深く思っていたら『素敵な彼』ことフィリップ・シーモア(仮称)によれば、「ツアー直前に癌が発見されて延期になったらしいよ」とのこと。どうやらその副作用なのだろうか。見下したわけじゃないが、太ってしまってがっくりと思った自分が浅はかだった。
そういうわけでもないが、思わずマリアンヌ・フェイスフルのベスト盤を買ってしまった。まだアルトヴォイスが健在(ハスキーになってない。そのケはあるが)の、若かりし頃の曲を集めたアルバムである。
いろんなカバーが集められているが、MondayMondayなんかを聞くとそのなんとなくヨーデルみたいなさわやかなバック演奏とは遊離するように、暗雲が漂っているーーまるで山の天気の変わりやすさをあらわしているかのような不安感を煽られる。それはひとえに彼女の不安定な音程によるところが大きいのだけれども、しかしそれがなんともいえず心地よかったりするから厄介だ。雨が降るなと濃灰色をした空を見上げて、顔にぽつぽつ落ちてきたような安心感ではあるけれども。ルー・リードが歌ったら邪悪に陥るのだろうが、マリアンヌの不安さはあらかじめ何となく見えている不幸な結果を静かに宣告しているような、そういった厳かな雰囲気が有る。ちょうど今読んでいるフラナリー・オコナーとよくあっている。
As Tears Go Byなんてドカチャカしたバックにうまくあのアルトヴォイスが絡んで、漂いつつ彼方を見つめている感じ。イギリス訛りの(そして彼女の出身階級であるところのハイソサエティ的な)発音がちょっと硬質で、切なさを諦観とともに見つめている感じがしてたまらない。少しだけ晴れた空の下、枯れ葉を踏みつつ、この曲をともにできればと思う。ちょっと、でかけようか。
Marianne Faithfull's Greatest Hits
- アーティスト: Marianne Faithfull
- 出版社/メーカー: ABKCO
- 発売日: 1990/10/25
- メディア: CD
【リメンバー・ミイ】ちあきなおみVIRTUAL CONCERT 2003 [音楽レビュー]
ちあきなおみ VIRTUAL CONCERT 2003 朝日のあたる家
- アーティスト: ちあきなおみ, 水谷啓二, 倉田信雄, ちあき哲也, 小椋佳, 服部隆之, 飛鳥涼, 瀬尾一三, 友川かずき, スクランブル
- 出版社/メーカー: テイチクエンタテインメント
- 発売日: 2003/04/23
- メディア: CD
84歳ラッパーの声を聞け!交通地獄と借金地獄、アナタならどっち!? [音楽レビュー]
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: Pヴァイン・レコード
- 発売日: 2005/11/18
- メディア: CD
「三千マ~~~~ン」
と明るく明朗な声で歌ってみた。なんのことやらというわけでご紹介するのは「交通地獄…そして卒業」。 この坂上弘さんは御年84歳。84歳の年齢を吹き飛ばすかのごとくラップ。84歳とラップではどうしても間に入るのは昨日の残りのおかゆだか雑炊だかというノリなのだが、まずは聞いてびっくり。のどを震わせるような美声にまずノックアウト、凄惨な事故にあった内容をダイレクトにラップするそのライム(バターン、キュゥ)にノックアウト、さらにさらにちょっとズレたリズムに飄々とのりまくる「三千マーン」にボディブローでスリーカウントとられて終了。こんなすごいのは滅多にない。ぜひ聞くべし。なにがなんだかわからないだろうけど、だがそれがいいのだ。 個人的にはこれでもう言うことはないのだが、このまま終了としてしまうのはあまりにも不親切なのでかいつまんで説明。この歌は、坂上さんの実体験を基にしている。「甲州街道をバイクで進み、そよ風きって走っていると」突然トラック野郎に「追突されてOH!NO!アタマからまっさかさまに地面にぶつかりバターン(キュゥ)」地獄の閻魔様の台帳には名前が載ってないので生き返って、リハビリに苦労したけど「保険慰謝料三千万!」手にして「花のキャバレー一直線」そこで「見目麗しきリンダちゃーん」と出会うが…「巻き上げられてOH!NO!」という内容である。文字にするとかなりすさまじいことになっているが、「からん~からん~困ったね~」と歌のほうはいたって暢気。「あーっという間にすっからか~ん」なんて聞くとなんとなく楽しそうな気すらするから不思議だ。この「すっからか~ん」には坂上マジックとでもいうべき呪文効果があり、なんとなく気がつけば「すっからか~ん」と口ずさんでいたりする。まさに魔力あふれる傑作CDと言える。 曲順は以下のとおり。
1、交通地獄
2、卒業
3、やまと寿歌
4、恋しのアンヂェラ
5、借金地獄
6、交通地獄 Remix
7、卒業(ライブ・バージョン)
このうち、必聴はなんといっても「卒業」と「借金地獄」。ちなみにこの「卒業」は持ち歌の「交通地獄」よりも評判がよい。だってねえ、80過ぎた爺さんが「センセイ!アナタはかよわきオトナの代弁者なのか」と声を震わせ絶叫するんだもの。それがいいンだな。「信じられぬ大人との~」という歌へ“おめえはオトナじゃねえのか”なんていう無粋なツッコミを鏡の如く跳ね返す笑顔。
年寄りじみて物のわかったような発言されるよりは、何歳でも不良やってるような姿に、やっぱり惚れますねえ。男とはかくあるべし。 「借金地獄」は“シャッキンシャッキン”というリフレインが耳から離れなくなること必須。気がつくとシャバダバダーなんて歌っていたりして。脳への染み付き効果絶大。 84歳の挑戦、アナタは受けて立てるか否や。
視聴したい方はコチラ
※先日、新宿タワーレコードで行われた坂上さんのイベントへ参戦してきたのですが、いや実にお元気。パワー全開で歌っておられました。店全体が歓喜で震えたように感じたのは、私だけではない、はず。
心のかけら [音楽レビュー]
精神的にも肉体的にもぐちゃぐちゃとした絡み合った洗濯物状態となってくると、同じようにがんじがらめな人の歌が聞きたくなる。そうしてがんじがらめを絶叫する歌となると、この人しか思いつかない。ジャニス・ジョップリン。
本人の実行動とはかなりずれているという話もあるけれども(ローディにSEX強要したり記者会見で同性の恋人の乳を撫で回したりとか。ガハハオヤジ系だなあ)彼女が歌う主人公たちはみなどうにもならなさを抱え、ロクでもない男を愛し、裏切られ、それでもソイツが戻ってくれば、「おかえりなさい」と出迎えてしまう。そうして男にやさしくして、そういう自分への自己嫌悪で歯噛みするほど悔しい。いわゆる「ダメなあたし」へ向けた哀歌であると同時に、ダメな男たちを暖かく包む鎮魂歌のようだ。
ああ書いていて。これはまるで私だな、と思う。いつも男に惚れこんではダメになったり、あるいは都合よく使われていることがわかりつつも、愛情に固着してしまう。ルース・エリスもだから他人事ではない。(ショック療法になるとはわかっていてもつらすぎて「ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー」は見られない)
で、うざい自分語りを簡略に進めると、私はルース・エリスのような状況に陥ったことが「あった」。私を熱烈に愛してくれる男がいるにもかかわらず、テメエが惚れた奴といえば、私を都合よく使い、テキトウにあしらい扱うような男。つまりMr.Fuckというわけ。そんな男とずるずるいてもダメになることは分かり切っている。つきあうわけでもない、さりとて手放すわけでもなく、どっちかにしてよという叫びを身体に抱えながら、どうすることもできない私はとりあえずセックスばかりしていた。そういう私を、そういう女であるが故に愛してしまう男も哀れだ。背中を向き合って三角形を描きつつの三すくみのような、ありきたりでよくあるソープオペラにもならない喜劇。
ジャニスは、そんな混沌の中に身を沈める私に対して「私の心をひとかけら、もっていきなさいよ」と笑う。本当はひとかけらもっていくのなら全部、皿まで食らえと言わんばかりに。そう。中途半端なことをするなら放っておいてとジャニスはMove Overで嘆く。ベイビーにんじんみたいね、という意味は、彼女によると、馬車馬のように、鼻先ににんじんをぶら下げている、そのにんじんはいわば愛で、男はそうして女を愛で釣って自分のしたいようにする、利用する。男なんてそんなもんだとわかっていても、傷ついて帰ってくれば「おかえりなさい。あの女に傷つけられたのね」とCry babyのように迎えてしまう。弱いのは誰しも一緒だからとコズミック・ブルースに励まされ、そうしてあの男との関係は、鎖でくくりつけられた鉄球のようだと、窓辺に座り降る雨を見ながら考えたりする。
さてわたしは、いったいどうしたらいいんだろう。ハニー?ダメな男とそれに惚れてしまう馬鹿な女に優しく寄り添うジャニスの唄を聞きながら、私はゆく川の流れを見つめていた。
MADONNA考 [音楽レビュー]
- アーティスト: マドンナ, ウイリアム・オービット, ロッド・マッケン, デビッド・コリンズ, クライブ・マルドゥーン, デイブ・カーティス, クリスティン・リーチ, スザンナ・メルボワン, パトリック・レナード
- 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
- 発売日: 1998/02/22
- メディア: CD
かすかなしるし [音楽レビュー]
以前JRのCMでUAが唄っていたバージョンが流れたそうだが、そのオリジナルがこちら。いとうせいこうの、不安定で、どちらかというとウィスパーボイスに近い微妙な音程の歌声がストリングス、ピアノと相まって実に切ない、後味のキレがよい仕上がりになっている。ただどうしても“いとうせいこう”というある種のイメージに囚われてしまいこちら側へナカナカ直截に浸透しないのが残念だ。この曲のPVもよかった。映画のフィルムへ本人達をとけ込ませたようなハンパに前衛的な感じが。
この曲ともうひとつ、オリジナルラヴの「月の裏で会いましょう」が私のある年代を象徴する曲であったりする。
THE VERY BEST OF ORIGINAL LOVE
- アーティスト: オリジナル・ラブ, ORIGINAL LOVE, 小西康陽, 田島貴男, 木原龍太郎, 宮田繁男
- 出版社/メーカー: 東芝EMI
- 発売日: 1995/04/28
- メディア: CD
中高時代、スペースシャワーTVをよくつけっぱなしにして読書したりしていた。そのとき、このSUBLIMINAL CALMの「かすかなしるし」とオリジナルラヴの「月の裏であいましょう」が何故かセットで流されることが多かった。「月の裏~」が流れるとその後「かすかなしるし」だったり、またはその逆とか。双方の歌が好きだった私は迷わずビデオ録りし、田島貴男の明朗で滑舌の良い発音のおかげで「月の裏であいましょう」は曲を買わずともビデオで歌詞を覚えてしまったぐらいだ。(結局始終聞いていたいのでCDは買いましたが。)この「月の裏で会いましょう」は“愛の奇跡”などといった現実離れした言葉が頻発するのだが不思議と、この伸びあがる耳馴染みの良いクラリネットのような声で唄われるとしっくり、ごく普通にうなずけてしまうから不思議だ。iTuneで視聴できるので是非聞いてみて欲しい。だいたいにおいて私はオルガンのようなエレピの音にはかなり弱くそういう音が入っているだけで無条件によしとしがちなのだけれど、それを差し引いてもテンポ良くキレがよいメロディが実に心地よい。繰り返し聞いても飽きることがなく、こうして10年以上経過しても再び聞きたくなる。味わいのある曲なのだ。
膝を抱えて夜を過ごし、読書もなにもする気になれずタダぼんやりとTV画面だけをみていたあの頃。そうしてその夜の永遠性をかたくなに信じていて。柔らかなボーカルが右の耳から左へ放物線を描いておちていく。
いまもまた眠れずに夜を過ごしこの曲を流し込みながら私は思う。
「ハイサイおじさん」喜納昌吉の奏でる天上の音楽 [音楽レビュー]
喜納昌吉の二大名曲「ハイサイおじさん」「花―すべての人の心に花を」のうちどちらが傑作であるかを問われたら迷うことなく私は「ハイサイおじさん」を選ぶ。あれこそ、天才が成した最良の仕事であり、まさに天上の音楽であるからだ。
「ハイサイおじさん」は明るい。底抜けに明るい。弾むオフビート、あるいはコーラスとのかけあい。あのやわらかい高音と三線の刻むリズムが笑いかけてくるようだ。歌詞は下世話ともいえる内容でかなりユーモラスだ。そこには「花」もつある種の宗教性のかけらもない。だからこそ普遍性を手に入れたといえるのだが。この、まさに楽しくて仕方がないあふれんばかりの陽気な曲を彼は若干17歳で作り上げたという。最初から最後までテンポが途切れることなく、あっという間に終わってしまう感じすらする3分程度の曲の中に永遠を閉じ込められたその力量や恐るべし。
「花」が(年齢その他含めて)ある程度以上の人間なら確実にウケるであろう路線というならば、この「ハイサイおじさん」は全世代、全方向に有効であるといえる。誰が聞いても耳なじみよく、すぐ鼻歌として歌える。そして曲の持つなんともいえない楽しげなオーラに包まれたくてしょうがなくなるのではないか。「バッハは一日中聞くのは苦痛だが、モーツアルトはなんと容易であることか」というのが誰の言葉だったか忘れたが、それを具現化しているのは、この「ハイサイおじさん」である。いつ聞いても苦痛を感じることはない。全く普遍的な曲であるのだ。
あえてあげるならば…現在の喜納昌吉の“不幸”というのもここに由来するような気がする。彼の音楽は理論だてて作り上げる類ではなく、ニライカナイから天降りした神が彼の肩に命を託し、その英気が自然と彼の双手に宿り、曲となし三線から流れ出す。それはユタが神を降ろす行為にも似ている。作り出すものではなく、降りてくる音楽。しかし神は気まぐれだ。昨日おりたものが今日降りるとは限らない。だから自分が神になることを選択したのだろうか。それとも単に、自身の内に神を見たのか。ある時期の喜納昌吉の行動―どこかの尊師のようないでたちとなり、ホーリーネームのようなものを周囲の人間に施したりしていたのはそういったことに原因があるのか。どちらにしろ、今の彼はもう神を降ろし音楽を任せる作業を放棄しているように思う。自分以外のモノに熱中した演奏家に対し、神は驚くほど冷たいから。
あの爆発するエネルギーの噴出力、琉球音階の底知れぬ明るさ、それらが渾沌未分に、まさにチャンプルーされている輝き。天上の音楽たる楽曲は時代が経とうとまったく衰える気配がない。まるで化け物だ。しかしこの化け物、実に楽しげだ。恐れるくらいなら一緒に踊りたいほどに。
やさしい暗殺者の とても深い夜【裸のラリーズ ENTER THE MIRROR】 [音楽レビュー]
切ないという感情を音として正確に表現するとどうなるのかが。裸のラリーズ「ENTER THE MIRROR」にはその答えがある。実に直截に、あますところなくすくいあげた音。音圧で鼓膜が圧迫されるぐらいの音量で聞く。音の中に身を沈めていく。そこには代え難い静謐さがある。音は私を孤独にするが、それは胎内回帰にも似た安らぎを与えてくれる。
あのギターイントロが静かに流れてくると、それだけで私は夏へいける。浮き足立った夏の宵に。
あの夏。タエコと二人で、今もう病院になってしまった新宿歌舞伎町の公園であてどなく歩き回って。わたしたち。夜の密度の濃さに窒素しそうになりながら人生を学んでいた。さまざまな人たちにきりとられた断面―赤黒い臓腑を私たちに晒していた。あまりの赤裸々さに手で顔を覆いながらも、その指の隙間から垣間見た男女のもつれ合う様。いつまで遊んでも、溶けることがないような夜。地面から立ち上る熱気は、どれだけ時がたとうと冷めることがなかった。あの夜。公園の入り口にたち、おどおどと辺りを見回すアタシたちに「そこに若い子がいると売れなくなるよオバサン」と声をかけてきた、あの太った年増はどこへいったんだろう。いま、そこにいるのに。もう。
ENTER THE MIRRORの中に、私のあの夏は確かに息づいている。手を伸ばせばすぐ触れられる近さで存在している。くるくると踊りながらほらもうそこに。あの記憶を永遠にするためになら、私はこの場で首を吊っても惜しくないと。あの夏を永遠にこの手におさめるためなら。
水谷はそこまでやさしくはない。
唐突に終わる曲の中でわたしは、もうそこにはいけないと、永遠の夏にすることができないことをいやおうなく悟らされるのだ。
また夏がくる。
絡み付いてくる熱気を内に取り込みながら、ふらふらと夜をさまよう。喧騒にエコーチェンバーをかけたようだ。暗殺者の夜はいよいよ盛んだ。また熱に浮かされながら、ENTER THE MIRRORを聞いてしまえば、わたしはきっと泣くだろう。泣くしかないのだ。またもやこの夜も永遠にできない自分の惨めさをまざまざと実感しながら。夜のやさしさに撃ちぬかれて。
思いがけない5月の夕立。打ち付けるように降り続ける雨の中をENTER THE MIRRORとともにいく。曲は解体され、一音一音が熔けて水滴と融合する。降り注ぐ音と思い出と。暗く光る路面に薄く輝く姿をわたしは確かに見たのだ。