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超いまさらですが「ノーカントリー」の夢の意味についての覚書 [映画レビュー※ネタバレ注意]

以下ネタバレなんでそれでもいいという人だけ読んでください。

なにをしていたんだと一部からいわれそうですが、昨日ようやく「ノーカントリー」を見終えました。この映画は省略や象徴暗喩暗示が多いので一見するとわけわからん上に後味が悪い作品と言われると思うけれども、いやいやどうして非常に考えられた(そして後の解釈を観客に任すといういい意味でボールを投げているのも計算のうちなんだろうなということも含め)考え抜かれた作品だなと思いました。対比対比と繰り返しが多いのでわかりやすいともいえる。

対比のひとつは、価値観(ある意味自分の中のルール規範倫理)に固執する人が二人登場し、また現実(ルール)を「運命の力」によって変えようと挑む(一人は「変えられてしまった」のだけれども)人間もまた二人登場する。ルールに拘泥するのは必殺仕事人シガー(ハビエル・バルデム。彼の分厚い肉をかきわけるようにして笑う姿がたまりません)と保安官ベル(トミー・リー・ジョーンズ)で、「現実を変革」させられた(した)人間は金を横取りしたモス(ジョシュ・ブローリン)とベルの叔父の元保安官。運命を受け入れる女性と拒否をする女性。対立軸上にいる人間が現れるので捉えやすい。「運命はこのように扉をたたく」といった作曲家と呼応するようにいちいちシリンダーを吹っ飛ばすシガーとか象徴も多い。(このあたりについては明日もっと書く予定)

で、もっとも解釈が分かれるのが、ノーカントリーの最後でトミー・リー・ジョーンズが自分の見た夢の話をするところでしょうな。彼はふたつの夢を続けさまに見る。ひとつは若くして死んだ自分の親がその若いままの状態ででてくる、自分は父親から金をもらうがなくしてしまうという短い夢、ふたつめは雪道を歩いているとまた若いままの自分の親が顔を伏せながら自分の横を通り過ぎていく自分は毛布を巻いて雪道を歩き続けるがその先に父親が焚き火をして待っていてくれていると思うという夢だ。

最初の夢について考えたのは、この映画の主題ともかかわってくるけれども、この映画において金はひとつのルールであり災厄でもある。怪我をした男が少年からシャツを買うシーンが二度繰り返されるがある種それが象徴しているといえる。金の入ったケースをめぐって殺し合いが起きるというのがこの映画のストーリー展開だけれどもそのケースを手にした人間は必ず死ぬ(もしくはその暗示がされる)のがまたこの映画のセオリーでもある。金は災厄の象徴となってしまっている。「金」は古来「道具」であったがやがて「ルール」へと変わっていく。そこを踏まえて考えると、この映画は金が「ルール」から「災厄」へと変化していくその過渡期を描いているといえる。その象徴がモスとシガーで繰り返される子供からシャツを買うシーンである。大怪我したモスは道を歩いていた少年たちからシャツとビールを買う。そのとき飲みかけのビールを売りつけようとする少年を別な少年がたしなめる。その場面がシガーで再現される際はシャツを売りつけた少年たちは金をめぐって争いを起こす。この時点で「悪疫」となりそれが「伝染」していく様子が描かれているのではないか?「ルール」から「災厄」へ。これこそまさに「リング」ですな。そこでこの最初の夢について私はこう考えた。若くして死んだ父親が若いまま現れ、そして金を渡す、この金は「古き善き時代のルール」ではないかと。「若いままの父親」とは「古き善き時代」を表していると思う。アメリカにおいてアメリカを支えた中流階級は絶滅に追い込まれているのが現状だがその端緒を担ったといえるレーガノミックスがはじまったのが1980年代前半でありまさにこの映画の舞台設定の時期と同じである。受け取った「古き善き時代のルール」を彼は次代にひきつけずになくしてしまう。「この夢を先に見る」ことといい、非常に象徴的なヒントである。

もうひとつの夢は雪道を歩いているとその横を例の「若いままの父親」が顔を伏せて通り過ぎていくというものだ。(イエイツやフロストの詩はここではのけて解釈する)テキサスに雪が降るなんて有り得ないわけでそんな有り得ない状況を毛布一枚(たぶん毛布は「アメリカンドリーム」やら「伝統」やらといったことだろう)で乗り切らなきゃいけない。でも乗り切れば「古き善き時代の価値観」にまた戻れるよ、という意味じゃないかと。(これとは別な解釈をハニーコミヤマとしていた。つまり死者が待つということは雪道は人生そのものであり、死者がまつ道のりという寒々しい光景からは例え「血と暴力の場所」から引退したとしても逃れられないのだという暗示ではないかというものだった)映画の公開は2007年。それと同じ年にオバマ氏は「チェンジ」を合言葉に出馬表明を行う。彼は新自由主義社会を否定し、「我々は出来る」といった。勿論彼は「古き善き時代の価値観へ」戻ろうとはいってないけれども、ケネディやルーズベルトの影を彼に見出す人々には「古き善き昔の強いアメリカ」を取り戻すように見えるかもしれない。どうしたらこの「汚わいと災厄にあふれた国」を変えられるのか?それは劇中で現実を変えられてしまった人間がいみじくも呟く「一個人の働きで状況が変化するようなものではない」ので「出来る限りのことをしていくしかない」のだ。ひとりひとりが。きびしい道、とんでもない道でも進み続ければ「冷たい闇の中を焚き火が待っている」。

というわけでほのかに明るい希望の持てるものに解釈してみた次第。さてどうでしょう?
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