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犯罪被害者家族へのケアや報復権について考える [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

気持ちが悪すぎて眠れないためつらつら書く。

今回の光市事件を調べていくうち、遺族と司法といったことについて段々と思いを巡らせていくようになっていった。

私自身についていえば、加害者になったことも、被害者になったことも、幸いにしてない。だが、実は、身内からは犯罪被害者も加害者もだしている。

その一件はある遠い親戚(遠いといっても交流がないという意味合いにおいてなのだが)の家族間で起きた事件だった。精神を病んだ息子が父親を殺害したのだ。そういうわけで、私は犯罪被害者遺族でもあり、加害者家族でもあるという、語弊を恐れずに言えば「奇妙」な立場にあるといえる。

私自身の実感をいえば、先ほど述べたように遠い親戚の出来事という程度しか捉えようがなかった。あまり交流はないし、会った事も数えるほどしかないし。ただ全く何もなかったという「幸運」な方に比べれば、考える機会は多少なりともあったとはいえるかもしれない。

そしてそういう「立場」に加え、こんなサイトも読み、またさらに考えることとなった。

犯罪被害者の会幹事を辞任しました。
http://www.aya.or.jp/~r777/shibuya/TS1229.htm

上記サイトの方がおっしゃるように、「復讐権」を認めてしまうことには、私も抵抗がある。呉智英がいうように「あだ討ち権」を認めてしまうと、江戸時代のように報復行動に出ない遺族を白眼視するような(被害者のことを大切に思ってなかったのか等々そこから発展して往々にして酷いうわさがたつものである)ことにはならないだろうか。

こういう風に考えるきっかけになったのは、宅間守の判決言い渡し後の暴言と最期を知ってからかもしれない。

事件は何の罪もない子供たちが、自殺願望の男に「破壊」されるという許しがたいものだ。宅間は法廷で暴言を連発し、最後の最後でもそれは変わらなかった。そして何の反省もしないまま死刑にされた。それでは子供たちが浮かばれないように思えた。死刑にする前にせめておのが罪を悔恨させ、遺族へわびながら死んでいってほしかった。ただやつらを高く吊るしただけでは、宅間のような人間の場合、単に望みをかなえてやっただけではないか。自分のやったことを徹底的に反省させ、悔い、死の運命に怯えながら執行するという形が私には望ましいのだが、そういう「教育」は日本の刑務所へは期待できないのかもしれない。

犯罪者は殺せば、そいつはそれでおしまいだ。当然だが。しかし、遺族の苦しみは、犯罪被害者の苦しみはその後も生きる限り続く。私には「復讐権」よりも、もう少し遺族の苦しみへのケアといった「きめ細かく暖かい」行政側のフォローがあってもよいと思うのだが。

犯罪被害者やその家族、遺族の苦しみ、悲しみをどのように昇華させていけばよいのか、それは簡単に答えが出る問題ではない。精神的、制度的フォローがもう少し充実してもいいように思うのだが、私には政府が厳罰化の一点で突破していくように見える。昨今の厳罰化の流れには「犯罪者を殺せばいいだろ」的な思惑もなんとなく透けて見えるように思えて好ましくない。被害者、被害者家族の慰撫=犯罪者への厳罰化では本来的に妥当ではないように思え、問題が摩り替わっているようにも感ずるのは私だけだろうか。「声が大きいヤツが正義」という事態だけは避けたいものだ。どんな場合にも当てはまる話だけれど。


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汐田太郎

>「声が大きいヤツが正義」という事態だけは避けたいものだ。どんな場合にも当てはまる話だけれど。

ふーん!なるほど!(爆)
by 汐田太郎 (2007-09-16 01:51) 

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