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「母子叙情」 [書を捨てよ、街へ出よう(読書感想)]

岡本かの子全集 (3)

岡本かの子全集 (3)

  • 作者: 岡本 かの子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 文庫


新たな発見をする本、というのがある。歳月を経てもう一度読み返すと今まで気づかなかったことがわかるというやつだ。ダロウェイ夫人のような数少ない例外を除くと、頻繁に読み返す本なんてそうはない。岡本かの子のある種の本は、年をとってから読もうと熟成させる高級酒のようにとっておいたが、とうとう我慢しきれずに読んでしまった。あとはまた10年後のお楽しみである。

で、そのある種の本の中の代表格がこの「母子叙情」である。

この小説は明らかに作者本人と分かる「かの女」がパリ外遊を経て、かの地に残してきた息子「一郎」(これまた実子太郎であることが明確である)を思い、その焦がれを同じ年の男に転嫁させる、といったストーリーを耽美華麗な文体でナルシスティックに描いた作品である。濃厚な脂滴るステーキ、かくの如し。

なぜ封印していたのかというと、実に単純な話で自分に子供を持ったときに再び読もうと思っていたからだ。この「かの女」が一途に感情を奔流させる息子という存在が、やはり実際子供を持たねば理解できないと考えていた。だが、この小説はもっと奥深いところへ切り込んでいたのだ、と今日読み直してよくわかった。自分の読み込みの浅さを痛感する。

それは例えば以下の引用を読めば容易に納得できるはずだ。

『そう云えば、むす子の女性に対する「怖いもの知らず」の振舞いの中には、女性の何もかもを呑み込んでいて、それをいたわる心と、諦(あきら)め果てた白々しさがある。そして、この白々しさこそ、母なるかの女が半生を嘆きつくして知り得た白々しさである。その白々しさは、世の中の女という女が、率直に突き進めば進むほど、きっと行き当る人情の外れに垂れている幕である。冷く素気なく寂しさ身に沁(し)みる幕である。死よりも意識があるだけに、なお寂しい肌触りの幕である。女は、いやしくも女に生れ合せたものは、愛をいのちとするものは、本能的に知っている。いつか一度は、世界のどこかで、めぐり合う幕である。』

岡本かの子の小説に棲むこの魔−−「女のなげき」「人生に対する不如意」「白々しさ」−−それらは「普遍的」であるがゆえに、彼女の小説はどの年齢でも読まれるべきである。かの子の嘆きに身を埋め、女の嘆きと喜びは一体であると、私は知る。


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