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沖縄戦の思い出(沖縄戦終結の日にちなんで) [おきなわんちるだい(沖縄あれこれ)]

戦後は還暦を迎えたなんていうへんちくりんな言い方をマスコミでは使用しているようですな。ともあれ先の戦争から60年経ちました。皮膚感覚で戦争というものを実感できなくなっても致し方ない。そういう歳月であると私は思う。
ミッチェルのご尊父から私はずいぶん沖縄戦の話を聞いた。本日は沖縄戦終結の日である。戦争体験をこのようなかたちでwebに残すこと、それ自体に意義があると思うので、微力ながら、お聞きした話を記してみたい。拙く長い文章ですがどうかお付き合いください。沖縄戦の戦死者犠牲者には心からの哀悼の意を表します。

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(ミッチェルから)聞いたと思うけど、ボクの姉がね、ひめゆり部隊にはいったんです。参加するちょっと前に近所に住んでいた人がせっかくだからと家族写真を撮ってくれてね。それが唯一の皆がそろった写真となってしまった。不思議なことにね、姉はユタ(※沖縄特有の女性霊媒師占い師)にね、姓名判断してもらったときに、10代で水難の相がある、といわれたよ。残念なことにその通りになってしまった。母はずいぶん悲しんでね、慰霊碑には一字多く彫ってもらってあるんだよ。
今日、平和の礎にいったの?あそこに多分姉の名前もあると思う。(姉のことは)もうずいぶん記憶から薄れてしまったけれど。

あのとき…沖縄に米兵が上陸したとき、ボクらは、北へ、山へ逃げたんだよ。父が女学校の校長をしていたから、それでツテのある先生のところへいこうと叔父からなにからみんなで逃げた。隣近所の人も、その頃になったらもうみんな逃げてたけど。

昼間は米兵が活動するから、夜逃げてね。山道の、荒れた道で、右手は崖のようになっていて、崖下は川だったと思う。父がいった「土手を左手で触りながら歩け」というその言葉を守ってね。父はその辺りをよく行き来していたそうだよ。だからある程度はどんな道かわかっていたみたいで、ボクらは父の先導の元なるべく急いで逃げた。雨が降ったりしてぬかるんでいて細い道。ずいぶん歩きにくかったよ。ボクは父の靴だけみて歩いた。我々を追い抜いていった夫婦が、カーブしている道をそのまま突っ切ってしまい、女の人が―赤ちゃんを抱えていたなあ―あっという間に足を踏み外して落ちたんだよ。立ち止まって「オーイ」と声をかけたら「大丈夫だよー」と返ってきたんで旦那さんだけ残して先を急いだ。でも気持ちとは別に足はすすまない。暗くて怖いし道は悪いし。

時折、米軍の照明弾が炸裂して、ものすごく明るくなる。そのときはソレッと駆け出す。それでずいぶん距離を稼いでね。後はじりじりとすすんだ。昼間は集落が捨てた壕の中や、ガマっていう洞窟みたいなところで隠れて休んでいた。ある日いつものように壕で休んでいたら、叔父が真っ青な顔して駆け込んできた。「アメリカーが来(ち)ょーん」(※アメリカがきている)といって。当時叔父は警察官をしていてね。それなのにおかしなぐらいぶるぶる震えて、どうにもならないくらいだった。続けて父がはいってきた。同じく音がするんじゃないかっていうぐらいぶるぶると震えていたよ。食料を探していたら、パンパンと銃を撃つ音がして、がさがさと英語らしき話し声が聞こえたそうだ。叔父は機転が利くからわざと全然別な方向へ石を投げて、米兵の話し声が聞こえなくなってから、ゆっくりと歩いてもどってきたそうだ。そんな近くまでもう米兵はきていたんだね。あんな二人の姿、後にも先にも見たことがなかった。しばらくしたら銃撃がはじまった。それが日本兵と米兵の戦闘なのか、米兵が捜索のためにわざと銃を撃っているのか、それはわからない。激しい銃声だった。壕の入り口は木の枝かなんかでカモフラージュしていたけど、硝煙が壕の中に充満してきて咳をおさえるのに必死だった。音を立てたら見つかるかもしれないからね。この壕にはボクたちの他、家族に取り残されたおじい(※おじいさん)がいたけれども、このおじいさんは耳が凄く遠くて、突然大声を発することがあった。だからボクはこのときおじいさんの口をふさぐ役をしていた。「おじいさん声を出さないでください」と。やっと米兵が引き上げてようやく静かになり。日が暮れるのを待ってボクらは壕をでて山奥に向かった。そのおじいさんがどうなったか、わからない。

避難地まで逃げる途中に、おかしな兵隊さんに会ったなあ。上半身は裸で、帽子だけして、手製のヤリみたいなのを肩に担いで、そこに上着なんかをぶら下げて歩いていた。沖縄出身だと言ってその人は歩きながら、「このヤリで米兵を5人殺した」って話してたよ。「二人は池の中で、短刀で刺して殺した。後の3人はヤリで殺した」短刀ももっていて、服も濡れていて、ホントみたいだったけど、でもちょっと話が出来すぎているので怪しいなと思った。米兵をやっつけた証拠があるから、それを見せて、この大東亜戦争が勝利した暁には、ゼッタイに偉くなるんだ、っていってたなあ。その人は一生懸命父に「自分が生まれた村はまだ安全だから一緒について来い」っていったけど、なんだかアヤシイからね。父は断って知り合いの先生のいる避難地にいったよ。あの人はどうしたかね。

ようやく知り合いの先生のいる村についた。山奥でね。先生は山の中のくぼ地に、壕―掘っ立て小屋みたいなのを作ってくれてね。ボクら―家族親類縁者含めて13人ほどだったかねえ―はそこで暮らすことにした。食料はないけど、比較的落ち着いて過ごすことが出来た。でも腹は減ってねえ。ほらあそこにある大きな葉っぱわかりますか?(とご尊父は庭にあるハート型をした葉を指差した。かなり大きい。)あれね“食わず芋”っていって芋ができるんだけど食べられないのですよ。いまはああして見事な葉ができるものだから、観賞用として庭に植える人が多いけどもね。もう腹が減って仕方なかったボクは、食わず芋っていうけど、ひょっとしたら食べられるんじゃないかって掘って食べたけども…あれは蒸したかなんかしたかねえ、一口食べたらもう吐いてしまって大変だった。私の母がね、その村でいちばんの年寄りにね、どうしたらいいですかって聞いたらね、黒糖と豚の脂を混ぜて丸薬みたいにして飲ませろ、とこういったよ。どういう作用かその辺がボクにはよくわからないのだけども、飲んだらね、不思議とよく効いたねえ。

そのお世話になった先生は動物を飼っていてね。馬とかヤギとか。あるとき、日本兵が村に来て、馬をだせ、と、こういうんだ。現地徴用すると。仕方ないから渡してね。馬を連れて日本兵が去ったあと、銃声がしたよ。恐らくは馬をつぶして食べたんだろうねえ。その先生は、もうこうなったら自分たちで食べてしまおうと、残った山羊をつぶしてボクたちにもってきてくれた。ところがこれが困った。ボクのウチはご先祖からの言い伝えで、山羊を食べてはいけないといわれていたんだね。なんでもご先祖様は山羊に助けられたことがあるから、その恩返しに、とそういう誓約をしたらしいんだけれど。(※沖縄は先祖崇拝が非常に強い土地柄)家族で悩んでね。食べなきゃ死んでしまう。でも食べたらご先祖様に背く。そしたらね、父がうまいことをいったんだよ。「確かにご先祖様は山羊に助けられた。でもいまだってそうだ。これを食べることでわしらは助かるんだ」と。上手い言い訳といったらあれだけれども、ともかくそれをボクらは食べて、助かった。

集落の回りを米兵たちが囲んでいるのだろうということはわかっていた。投降する人びとも増えてきた。時々食料を交換した村の人びとの中で戦局に詳しい人がいて、どうみてもダメだろうといっていたそうだよ。でも非国民と呼ばれることをおそれて父たちはどうしても簡単には投降できなかった。その頃になると米兵とも交流があってね。食料をねだったり、彼らが捨てるために埋めたモノをまた掘り返したりして食料を賄ったりしてた。ボクもよく掘り返してねえ。でも掘り返したら米兵達が用を足した後だったりしたことも幾度もあったよ。ただもうそのうち食料はどうしても底をついてきた。父たちは話し合って、余力があるうちに投降しようと。でもこれは本当に恐ろしいことだった。もし日本が勝ったらボクたちは大変な反逆者になってしまう。今の自分たちがどのような状況におかれようとも、なにしろ日本が負けるわけがないと思っていたからね。必ず本土から応援が来て戦局が好転するに違いないと信じていた。でも幾晩も話しあって、このままじゃみんな死んでしまうからどうせ死ぬなら米兵のところにいって死のう、ということになって、付近で同じように隠れている住民と一緒にみんなで、村長さんが白旗を掲げて、山を降りたんだ。たしか7月の…初旬頃だったと思う。

空が青かった。本当に、青かったよ。


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phantom

大戦時の話をする人は最近は減ってしまい、戦争を身近に感じられなくなってきました。
今の日本は戦争にならないと信じているのかのんびりしていますが、いつ何時、巻き込まれるかも知れません。
無闇に恐怖を煽るのはいけませんが油断もいけません。
戦争になったら市民がどうなるのか実体験を聞けるのは貴重です。
日本の国土の中での戦争は確かにあったのです。
本土決戦と同じなのですよね。
by phantom (2005-06-23 17:58) 

femto

沖縄の戦争の話をつまらないとほざいた先生がいましたね・・・。
そんな人を争いの最前線で人の死がつらく、悲しく、恐ろしいことを体験してみんなに伝えてほしいと・・・思ったりして。
by femto (2005-06-23 19:00) 

今日は当然瑠璃姉の記事を読みに来るべき日なわけで、あ、いや、ほぼ毎日来ていますけどね。。。
知事や首相の云々の言葉などいらないから、あの戦争で沖縄がどうなってしまったのか、何が起きていたのかを真剣に耳を傾けたいです。
友達を爆弾や機銃で亡くし、歩くことの出来ない負傷兵に毒を渡し、終戦後その事を胸にしまい続ける苦しさ(この「苦しさ」をどう言葉にしたらいいものか・・・)を、自分の胸が張り裂けてでも、聞いて刻み込んで、そんな思いを二度としないように、行動したいと思います。
ヌチシヌジガマで感じてきたことを今、思い出しています。
by (2005-06-23 19:32) 

アキオ

眠っても忘れられない思い。
死ぬまで持っていかなければ行けない思い。

思いは重い、伝えるには薄くなりすぎた戦争の記憶。
でも、しまい込むわけにはいかない歴史。
by アキオ (2005-06-23 21:42) 

私たちは、あの戦争を身を持って体験は出来ないけど、
心を持って何かを感じ取ることが出来るとは思うんだ。

結婚した当初から、義母や伯母たちの戦争体験聞いていて
明るくお話はして下さるけど、
その下にある悲しみはものすごいものだと思うのね。
本当にただ聞くだけしかできないの…。
話の上手い、下手なんて関係はないよね。
魂のお話だもの。
どんな大きなエピソードでも
日常の些細エピソードでも、尊い経験だもの。

ただ…。
原爆の資料館に行きたくても、
全員に反対されるのはちょっと意外だったの。
多分、私の心と情報処理のことを心配してくれているからなんだろうけど、
今度、帰省したら敢行してみるかも。
もちろん、調子が良い時にだけどね。
by (2005-06-23 21:56) 

ななよ

先日はTBありがとうございました。本日はちょっと息抜きのTBさせていただきました。

沖縄戦60周年。
今の平和な時代の私たちからは想像がつかない状況だったと思います。愛する人、愛する故郷、愛する国。その愛が強いからこそ、その愛が崇高だからこそ戦うという悲しい状況もあると思います。
戦時中を知る親、親戚は、明るく昔話をします。空襲の話、重油まみれのコーリャンの話。確かに明日の命が保障されない、隣の人が爆弾で吹き飛ぶ(言葉の表現じゃなく、物理的にちぎれて吹き飛ぶ)時代。そういう先人たちが居たからこそ、今の日本があると思っています。心より感謝しています。
沖縄戦でなくなった方々、民間、軍属の方々に心から敬意を示すと共に、次の時代に誇らしく平和な時代を残す義務を果たすこと、これが先人の方々に対する恩返しであると思っております。

今日は、明日の自分を見つめてゆっくり寝ることにします。
by ななよ (2005-06-23 23:35) 

黄泉若宮

ありがたう。
ありがたう。
by 黄泉若宮 (2005-06-24 01:06) 

古本屋でレジ打ちのバイトをしてたとき、痴呆気味のジイチャンに絡まれて1時間以上に渡って戦争体験を聞いたのを思い出しました。今の自分でもう一度聞きたいと思うけれど叶わない。だからこういう記事って、とても有難く思います。
by (2005-06-24 04:08) 

nanairo@えいほう堂

はじめまして。
戦争体験のリンク集の紹介へTBさせていただきました。ぜひ、そのリンク集(戦争体験を語り継ごう)にこのお話を紹介してあげてはどうでしょうか?
青学入試の全訳のお話も読ませていただきました。
冷静な判断に共感いたします。やはり不適切であることは動かないと思います。
by nanairo@えいほう堂 (2005-06-24 09:47) 

とらひこ

トラバありがとうございました。
戦争が風化していくなか、ネットでその体験談を残すというのは大事かもしれませんね。僕もわずかでも力になればと思いました。
by とらひこ (2005-06-24 13:07) 

NO NAME

はじめまして、mayuです。
トラックバックきづきませんでしたm( _ _ )m
ワタシはラブログなのに、探してくれはったんですか???
沖縄には親戚も友達も居ませんので、体験談はあんまり知りませんでしたので、ほぉ~と思うお話でした。
by NO NAME (2005-06-24 23:41) 

ALBION

>余力があるうちに投降しようと。でもこれは本当に恐ろしいことだった。もし日本が勝ったらボクたちは大変な反逆者になってしまう。

見えぬ明日への苦悩と恐怖。何もしなくても明日が来る平和な現在からは想像もできない葛藤があったことでしょう。
by ALBION (2005-06-25 02:49) 

亜衣

はじめまして TBありがとうございます。

ミッチェルさんのお父様のお話、一気に読んでしまいました。
生き残った人たちも大変な苦労をなさったということ、
助かったか助からなかったかが紙一重の状況であったことが
よく伝わってきました。
ご紹介に感謝します。
by 亜衣 (2005-06-25 20:53) 

goro1401

はじめまして。
読んでいるうちに、言葉の向こうにある恐怖とか哀しみとかを思い、涙が止まりませんでした。私の親・祖父母たちは戦争中のことをあまり語りません。確か1、2度「拾った不発弾を売って食べ物と交換したよ」と話してくれただけです。きっとすべてを話すのには記憶が生々しすぎるのかも知れませんね。この話を読めて本当に良かったです。ありがとうございました。
by goro1401 (2005-06-25 20:58) 

nadja

はじめまして、TB3回もありがとうございます。どうも重複しているので二つは削除させてもらいました。ご了承を、、、、

今後ともよろしくお願いします。

では、

http://blog.drecom.jp/wbo
by nadja (2005-06-26 00:33) 

瑠璃子

皆様コメントへのレスが遅れまして、大変申し訳ありません。TBならびにnice!をくださった方、本当にありがとうございます。

>おぢ
戦争は日々遠くなります。自らが聞こうとしようとしないかぎり。10代の世代で、アメリカと戦争したと本気で信じられる人はあまりいないかもしれない。そういう歴史があったことは当然知っているだろうけれど。
代理本土決戦でしたね。沖縄戦は。沖縄の傷跡はいまでも膿みながらまだ癒えずにいるのです。

>mako氏
実体験しなきゃダメだというなら、いっそのこと外人部隊にでも入ってみたらどうでしょう。言葉による伝達のありがたみみたいなものを感じると思います。あの文章褒めている人いるけど、それほどのものかなあと。直截な肯定にしろ否定にしろ、そうなるとどちらにしろ政治問題化させているような気がしますね。淡々と当事者の証言を聞けばいいじゃないかなと。私はそう思ってます。

>スナフ氏
この記事の中では触れなかったけれど、ミッチェルの叔母様は、摩文仁の海岸を海伝いに夜逃げる途中、機銃掃射にあい、近くにいた旧友が彼女をひっぱりあげたら、防空頭巾だけがずるりと持ち上がったそうです。こういう生々しいリアリティを直接お聞きできるのはむしろ(語弊はありますが)幸せなことなのかもしれません。それによって学習でき、次世代へと伝えていけるのですから。伝えていきましょう。

>アキオ氏
しまっちゃいけません。戦争の記憶は、常にだせるようにしておかないと。いつ何時、どうなるかわからないんですから。ミサイル、降ってくるかもしれないしねえ。

>ひかりこ氏
無理しないほうがいいよ。戦争の悲惨さがその悲惨である部分のみクローズアップされて嫌悪感がでてもいかんし。調子の良いときに様子見て(ってわかっているだろうけど一応)次代へ伝えて生きたいよね。私は人間にとって戦争は(どういうカタチでアレ)欠かすことが出来ないものだと思う。その戦争が個人レベルか国家レベルかそれはさまざまなのだけれども。人間が自己の不全を宿命的に抱えている以上、回避は難しい。ただ起こさないように努力することは大事であって、そのためには記憶を伝えていくしかないのでしょうね。

>ななよ氏
そうなのです。想像も出来ないくらい過酷だったのでしょう。私が出来ることといえば、靖国神社に参拝し、御霊の安らからんことを祈る、それぐらいなものです。あとはこうしてお話を記録し、公開して少しでも記憶を伝達させていくことだけ。そういう努力を忘れてはいけないなと思ってます。もうすぐ靖国神社の御霊祭りです。(7/13~16まで)

>黄泉氏
読んでくれてありがとう。

>春巻氏
意外なところで聞いて、あ、メモしたかったなと思うことはありますよね。私も祖父にたくさん聞いておきたかったといま後悔してます。この記事が参考になったようで、よかった。感謝します。

>nanairo@えいほう堂さま
はじめまして。ようこそお越しくださいました。
TB先拝見しました。リンク集ですが、なにぶんにもお子様まで読まれるサイトとなると、私のブログはエロネタが含まれるのでどうも。戦争体験だけ投稿したいんですけどね。
青学入試問題は一見中国などの批判にも踏み込んでいるので、反中国派からは喝采を浴びそうですが、ちょっとそれもズレているんですよね。不適切なのは間違いないと私も思ってます。コメントありがとうございます。

>とらひこ氏
はじめまして。ようこそお越しくださいました。
こちらこそありがとうございます。ネットは残るので、戦争体験を記す意味はあると思うのです。私ももう少しいろいろな方に話を聞いて、少しずつUPしたいな、と思ってます。コメントありがとうございました。

>mayuさま
はじめまして。ようこそお越しくださいました。
突然トラックバックを送ってしまい大変失礼いたしました。参考になれば幸いです。

>ALBIONさま
明日が見えないということは本当に恐ろしい。それこそ1秒後の自分の命の保障すらない。そういう時代が確かにあった。60年前に。そのことの意味をもう一度この機会に捉えなおしたいですね。コメントありがとうございました。

>gorokuroさま
はじめまして。ようこそお越しくださいました。
この記事が参考になったら幸いです。やはり戦争体験は生々しく語れる人と語れない人がいると思うのです。例えば実際に自分がなにか大きな事故にまきこまれた、あるいは殺人事件などにまきこまれたとして、思い出したくないというのが正直な感想ではないでしょうか。そこを超えてお話くださる方は大事にしたいです。人間は、そういう記憶でも(言葉はアレですけれども)ある意味懐かしく思い出せるようにすらできると私はその治癒力を信じてます。コメントありがとうございました。

>nadjaさま
はじめまして。ようこそお越しくださいました。
コチラのサーバーエラーで3回も送ってしまっていたようですね。大変失礼いたしました。
コチラこそよろしくお願いいたします。コメントありがとうございました。
by 瑠璃子 (2005-06-27 16:20) 

うるかみるく

TBありがとうございます。今回はコメントにいたしました。
うちは、父が対馬丸に乗り損ねてたり、マラリアにかかったり、戦後(復帰後)ですが、不発弾爆発時刻に、たまたま現場で用事があるはずなのを忘れて助かったりしています。母は赤子なのに、爆弾の雨の中をそのまま負ぶわれて家族と移動してたみたいです。よく無事でいたものです。
父や母になにかあったら、こうして私が瑠璃子さんの記事を読むこともなかったわけだし、瑠璃子さんも、ミッチェルさんのご尊父になにかあったら、ミッチェルさんとお会いしてなかったわけですから。
そんな意味でも、平和は大事です。一緒に叫びましょう。
戦争反対。
by うるかみるく (2005-06-28 09:48) 

瑠璃子

>うるかさま
ようこそお越し下さいました。
戦争には反対です。
コメントありがとう御座います。いまはひとの輪廻の不思議さに思いをはせております。よろしければまたお越し下さいませ。
by 瑠璃子 (2005-07-26 00:50) 

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